ろぐの垂れ流し

LOVE定額の相手に着信拒否されたことあるか?!

三宅唱監督『ケイコ 目を澄ませて』主演:岸井ゆきの

 昨年末にユーロスペースで鑑賞して、なんとなく整理が付かず投稿していませんでした。


 一緒に鑑賞した友人が「彼女(主人公)に起こることは誰にでも起こりうる。ふーん、って感じ。」と言っていました。また、これは純粋に物語の組み立てとして評しているのだと思うのですが作家の水原秀策が「映画の主人公を甘やかし過ぎ。彼女に問題を解決する(脚本を前に進める)主体性が無い。」と評していました。私には映画と同じくらいそれらの本作に対する感想が心に引っかかりこの映画に向き合うことを保留していたのです。


 主人公女性の聴覚障害を舞台装置として消費する構えがそもそも我々鑑賞者に植え付けられていないか?


 『わたしは最悪。』や『フランシス・ハ』の主人公に、ただの個人特性のグラデーションである聴覚障害を脚本に加えただけで、鑑賞の構えが変わったりしないのか?


 私自身に「24時間テレビ愛は地球を救う」的な暴力は内面化されていないのか?


 映画の冒頭で主人公の設定を知るにつれ、仕事も収入もきちんとあり、職場の人たちの理解も有り、親兄弟がいることへの意外性を感じたことに猛烈な自己嫌悪を感じるのです。聴覚障害者がプロボクシングをしているというリードだけで、苛烈な環境や人生を想像していた自分をとにかく恥じました。

 

 岸井ゆきの演じる主人公ケイコが作中で最も人間関係を密に描かれる相手、ジムの会長を三浦友和が演じていて、この二人の交流は本作のメッセージのコアだと思いますが、三浦友和は手話で話すことはせず、ひたすらボクシング技術で主人公ケイコと対話をするのです。さらには脚本の展開でキーとなる、一つは回想シーン、一つは終盤の1対1の対話シーンで「もっと大きな声で返事を」とろうあ者であるケイコに発声を求めます。

 

 そこに残酷さやハラスメントの要素は一切なく、ひたすら二人の人間の交流の温かさと愛情があって、やっていることの表象と我々が受け取る心象のギャップにとても驚きました。

 

 ある女性がキャリアとモチベーションに悩む当たり前の姿を、聴覚障害という特性を包摂して、極めて映画的に完成度の高い物語を我々に提示してくれた本作は、とても優れた映画体験だったのだと思い至りました。