ろぐの垂れ流し

LOVE定額の相手に着信拒否されたことあるか?!

『シナモンとガンパウダー』イーライ・ブラウン著、三角和代訳、創元推理文庫

 作家の深緑野分氏がTwitterでお勧めしていたので手にとって読んでみましたが、たしかに面白い!設定がユニークなので、いつもはしない公式の内容紹介を引用します。

<内容紹介>
「命が惜しければ最高の料理を作れ!」1819年、イギリスの海辺の別荘で、海賊団に雇い主の貴族を殺害されたうえ、海賊船に拉致されてしまった料理人ウェッジウッド。女船長マボットから脅されて、週に一度、彼女だけに極上の料理を作ることに。食材も設備も不足している船で料理を作るため、経験とひらめきを総動員して工夫を重ねるウェッジウッド。徐々に船での生活に慣れていくが、やはりここは海賊船。敵対する勢力とのマボットたちの壮絶なる戦いが待ち受けていて……。面白さ無類、唯一無二の海賊冒険×お料理小説!


 東インド会社がモデルになっている大英帝国の“ペンドルトン貿易会社”が三角貿易ブイブイ言わせていた頃の話です。英国支配下のインドが舞台である映画『RRR』の100年前ですね。『RRR』でもナチスばりに悪辣に描かれている大英帝国ですが、この小説でも女海賊船長マボットがどうして私掠を繰り返すのかという理由が明らかになるにつれて「なんちゅー悪どいことを・・・」と読んでいるこちらにも怒りがこみ上げてきます。もちろん史実に沿った話であるわけで、読後にはエリザベス2世が亡くなった際に旧植民地である国の人々から帝国支配の象徴として彼女に批判の声が上がったというのも宜なるかな、と報道の映像を思い返しました。

小説に話を戻しますと、内容紹介からソリッドシチュエーションものかなと想像していました。海賊船の独房と厨房でねっとりじとじとと知略を尽くして脱出を試みるといったようなストーリーだと思っていたのですが、実際にその要素を踏まえつつも、舞台は海に陸に港に、人間関係も縦横無尽に広がり、とても抜けの良い爽快な読書体験でした。

 私がこの本で好きなところは、主人公の料理人ウェッジウッドが非マッチョなところです。もともと孤児で教会に育てられ、愛していた妻に先立たれて孤独な身。いろいろあって偏屈で理屈っぽくてウジウジしている。しかも恨みがましい。はっきりいって活劇小説の主人公にはふさわしくなさそうなこの料理人が中盤以降に実に愛すべき人物像として掘り下げられ、料理でも料理以外でもクールな活躍をしだすのです。そこには間違いなく個性豊かな海賊船員との交流や、マボットの辛辣で痛烈な権力批判を聞き彼女の目を通して世界の実像を学ぶ過程が影響していて、ボストン・テラン『神は銃弾』で主人公男性警官が娘の捜索に協力してくれる元薬物中毒者でカルトメンバーだった経験のあるヒロイン女性との関係性の中で自分の差別的な道徳観やジェンダー観を書き換え、マチズモを捨てていくストーリラインととても良く似ていて非常に好ましいものでした。堅物だった料理人ウェッジウッドがどんどん男前に格好良くなっていき、多様性に富んだ価値観を身に付けいく。まさかそのプロットはないだろうと思っていた方向に話が盛り上がっていく後半は意外でしたが、それが驚きの後にはすんなり読者の腹に収まる仕込みが前半、中盤にしてあるのですよね。とても巧いと思いました。

 もちろん、主人公が料理人でその腕を買われて不幸にも拉致されてしまったわけですから、作中には料理や食事の魅力的な表現が満載です。そんな中でも、主人公ウェッジウッドが自分を拉致した女海賊船長マボットに味覚についての講義をする非常に豊かで美しい一節があるので、それを引用して終わりにしたいと思います。少し長いですがお付き合いください。

「教えて」―マボットが身を乗りだす―「あたしにこんな料理を教えるとしたら、最初に身につけなくちゃならない心得はなに?」
体内のワインが、寿命が七日間延びたという興奮と合わさった。「鼻と口を混同してはいけません」わたしは話を始めた。
「そんなこと、しないよ」
チェンバロだと、心地よい音を出すには、複数の鍵盤を調和するように叩かねばならないですね。料理の風味もそうなんですよ」情熱を晒しすぎたと感じ、ここで顔を赤らめた。だが、彼女は笑わなかった。「鼻で感じとれるものは無限ですが、口は六つしか感じられない」
「これはいいね」マボットはにっこりした。「洗練された会話が恋しかった。あんたは嫌みたらしいけれど、息抜きになる。あたしのクルーは気のいい連中だけど、晩餐の話し相手じゃない。さあ、続けて」
「味覚というのは、人生に相似しているんです。塩味は血と涙、勝利と敗北のエキスです。色なら赤。酸味は注目を呼びかけるもの、尻をぴしゃりと叩くもの、留意せよと促すトゲの一刺し。色ならコマドリの翼の下にちらりと見える黄」
「あんたは哲学者でもあるんだね!」
ふたりともワインを飲んだ。ウサギはこの場を離れてから、またもどってきた。見えないドアを通れるみたいに、暗闇から明るいこちらへ駆け足で行ったりきたりする能力を持っているようだ。「続けて、いまのでふたつ」
「甘味は歓迎してくれる手、母乳、温かいベッドです。色なら夕暮れのオレンジ。苦味は厳しい言葉の裏にある愛、得がたい不屈の精神です。色なら緑。渋味は強い風。引き締め、清浄、自立をもたらします。冷たい水の青だ」
この考えかたは長年にわたってわたしのなかで醸造されたものだが、誰にも話したことがなかった。ワインはわたしが慣れ親しんだものより強かった。
彼女は目を閉じ、頭がつくまで椅子にもたれた。
「〈天国の門〉が最後の風味です」わたしは言った。「めったに話題にはなりません。軟口蓋の暗い斜面に息吹いているもの。ごく特別なブイヨンでのみ発見できるのです。神がアダムに命を吹きこまれた後に居座った味。土塊を生き生きと動かす風味。紫です」(P.120-122)

 

今泉力哉監督『窓辺にて』

 12月1日映画の日の夜に、『街の上で』がたまらん好きな今泉力哉監督の新作『窓辺にて』を鑑賞してきました。

 

 『街の上で』よりもずっと笑いもテンポも抑えてきたなぁと思っていたら、序盤の気まずさと居心地悪さを強調する映画のモードが中盤からぶんぶんバイブス効かせ始めて、ラストにかけて脚本の妙技の天丼状態。

 

 うわー、面白かった!

 

 「感動した」とか「心に響いた」とかじゃないのです。『街の上で』よりも、今泉力哉氏が脚本を手がけた『愛なのに』よりも、本作では笑いがぐっと絞られているのだけど、それでも鑑賞後に一番初めに出てくる感想は「面白かった!」なんですよね。

 

 『十三人の刺客』の演技がトラウマになっている稲垣吾郎の主演作を初めて観たのですが素晴らしかったです。作り過ぎない適当に力を抜いた演技の塩梅が最高。当て書きオリジナル脚本が存分に活かされたキャラ造形になっていました。

 

 食事のシーンも大好きなシーンが沢山ありました。今泉監督は意識的に飲み食いをドラマに盛り込んでくるので大好きなのです。マスカットを皮ごとシャリシャリと食べる咀嚼音の気詰まり感とか、おかんの握るでっかい塩結びとか、もうほんとたまらん。遠慮無しに咀嚼音を録っていく録音も良かったなぁ。

 

【こここらネタバレ可能性あり】

 

 『街の上で』では主人公の青年、荒川青(若葉竜也)が自意識過剰の空回りを卒業して、下北沢という街のメンバーシップを獲得する成長物語だと捉えているのですが、本作の稲垣吾郎演ずる市川茂巳は既婚の中年男性で、鑑賞後すぐには私にはこの映画の構造というかテーマが少し捉えづらかったです。役柄への共感が邪魔をしたのか・・・作中なぜか主人公市川茂巳の言動に身につまされるところが多かったです。私はあんなに格好良い男ではないのに。

 中盤に稲垣吾郎がある人物から言われる「あなたは私に似ている。心の中で人を見下しているところがある。だから人に相談できない。相談されることはあっても。」というセリフは今泉力哉監督のツイートにも言及があるので明らかにこの映画のキーになるものなのでしょうが、映画前半を観て明らかに善人で好印象の役柄である市川茂巳になぜ「心の中で人を見下している」という性格づけをする必要があるのか鑑賞中に私は戸惑いました。この「人を見下す」というワードがちょうど中盤にポンと投げかけられて、鑑賞者ののどに引っ掛かります。人に言われればとても居心地の悪い評価です。だけどもその居心地の悪さをもって、前半の市川茂巳のモヤモヤを振り返り、そしてラストに向かって、その居心地悪さが全て綺麗さっぱりハーピーエンドとはいかないまでも、いかに軽くなっていくのかに鑑賞者をフォーカスさせるとても重要なシーンでした。

 

 居心地の悪さ、モヤモヤがこのシーンを起点に別の感情にクロスフェードしていくのです。

 

 ラスト近くで茂巳が劇中小説『ラ・フランス』を読んでいる時に、その劇中小説の著者を演じる玉城ティナの朗読が被せられます。そこで一際印象に残るのが「(大意)正直さは何よりも素晴らしい」というものでした。冒頭から、玉城ティナの朗読が茂巳の心象にリンクしている演出が繰り返されていることから、茂巳が「正直さ」に行きついたことが表現されていると捉えたのですが、それがなんとも嬉しいというかホッとするというか。

 なぜなら、そこで私は茂巳が前半でモヤモヤしながら「人を見下している」と評される印象を周囲に与えていたその原因は、自己愛よりももっと切実な「心の鎧」の作用だったのだと思えてきたのです。茂巳が、大袈裟な反省や自己変革の経ることではなく、ただ他人の受容と自己開示の振り幅をほんの少しずつ大きくしていく過程で、前よりもずっとずっと生きやすい「正直さ」という地平に立てたのだと考えたのです。それが嬉しい。中年男性のアイデンティティクライシスに、冒険や背徳的なロマンスや酒や薬物や暴力も無しに、ただただ良き人として良き会話を重ねる努力を続けることで、生きやすい自分の型を身に付けていく。なんだか、自分にでも手の届きそうな境地で素敵なのです。

 

 鑑賞からすこし時間がたって、私なりになんとなくなぞられたこのストーリーラインは、やっぱり驚くほど『街の上で』に根っこではつながっていて、主人公が自縄自縛のギクシャクから開放されていく遷移(『街の上で』では成長)の過程を丁寧に描いているのだと思います。「引いて足す」をすることで、無くなってしまった愛情関係を再定義し、鈍ってしまった自分の感情のモーメントを再構築していく構図はジェイク・ギレンホール主演の『雨の日は会えない、晴れた日は君を想う』にも通じるところがあるなと感じました。

 

 全編おだやかなトーンで進む本作ですが、茂巳が決定的にニューバージョンの彼になっていく瞬間を映すエキサイティングなシーンがあります。私には茂巳が妻の紗衣(中村ゆり)に不倫のことを知っていると打ち明ける12分の長回しよりもそのシーンの方が素晴らしいと思いました。その妻の紗衣との会話シーンは会話が進みながらパワーバランスがぐらぐらと変わっていく絶妙の脚本と演出で確かに本作の白眉とも言えるシーンですが、私が最も好きなのは妻(そのシーンのタイミングでは元妻)紗衣が編集担当に就いており、かつ肉体関係にあった若手売れっ子作家の荒川円(佐々木詩音)と正対して、紗衣との関係や創作について会話をするシーンです。声を荒らげることもないタイマンシーン!このシーンの稲垣吾郎の格好良いこと!さすがサイコパスなお殿様を演じて賞を獲った役者です。作中、まるでふわふわと漂流してきたような茂巳が、ここにきて大人の貫禄とプロフェッショナルとしての凄みをもって、どーんと若手作家に胸を貸すわけです。瞬間瞬間に鋭利な感情を差し込みながら、それでも相手に対する理解と敬意を忘れず。

 

 自分の感情は自分で決めるという怒りと、相手への受容を同時に大きく発動した静かで熱い、鬼気迫りながらも穏やかな、とんでもなく凄い演技合戦でした。あのシーンだけで映画チケット代の元を取ったと思えます。

 

 あまり多くの出演作を観ていなかったのですが、稲垣吾郎はとんでもなく凄い役者でした。

逢坂冬馬 著『同志少女よ、敵を撃て』早川書房

 今年の夏休みに岸田総理が本作を読む予定だという報道があってすっかり興が冷めていたのですが、プーチン大統領が予備役の動員を決定しロシア国民が反対のデモをしているというニュースに触れたとき、自分の中のやりきれなさに整理がつかず、積読書棚から引っ張り出して読みました。

 

 内容と全く関係のない話で恐縮ですし完全に私の好みの問題なのですが、雪下まゆ氏(朝倉秋成『六人の嘘つきな大学生』、辻村深月『傲慢と善良』、福田和代『梟の一族』、乾ルカ『コイコワレ』などの表紙を手掛ける)のこのカヴァーデザインは作品の世界観をミスリードしているのではないかなという印象が拭えません。デッサンも狂っていませんか?(主人公セラフィマの顔に比して、軍用ライフルSVT-40が小さい)

 

画像引用元:Amazonモシンナガン ☭ 91/30 SVT-40 PU スナイパー スコープ レンズカバー 実物 

 

  私自身、SNSの口コミが耳に入らず広告や帯の文句や受賞歴だけでしたらこの表紙のイメージのせいで手にとることはなかったと思います。狙いとしては読者層を広げて戦争文学という枠を少しでも取っ払いたいというものがあったのだと想像するのですが、本作と同じくシスターフッドを題材としたバイオレンス・アクションの名作、王谷晶『ババヤガの夜』のカヴァーデザインの成功と比較してしまうのです。

 

 ”がわ”の話が長くなりすぎましたが、この『同志少女よ、敵を撃て』という小説の内容はもちろん素晴らしかったです。文体がペタペタして喉越しが悪くなる部分もいくつかありましたが、そりゃ評判になるなという傑作でした。なにが素晴らしいかというと、独ソ戦の悲惨さを伝える史実ベースの綿密さと反戦メッセージに、きちんと戦争アクションノベルのエンターテイメント性をバランスさせてきたところです。狙撃兵の訓練なんてなかなか国産文学では読めない内容ですよね。戦闘シーンの描写はスピード感重視で盛り上げを優先しつつ、一作を通じて反戦、フェニズム、殺人行為への思索が太い糸として織り込まれています。特筆すべきは狙撃手として卓越しようとするプロフェッショナリズムとその哲学に、殺人行為への陶酔を強く否定する揺り返しのような精神的反作用を必ず書き込んでいるところです。

 

 さらに戦争によって引き起こされる女性への暴力や性加害を重要なテーマとして扱っています。これは特に男性読者がいわゆる「戦争モノ」を読んで痛快さを消費するにあたっては非常に苦い、やりどころに困る不都合な真実であるでしょう。実在した女性だけの狙撃小隊を主役に据えたことで否応なしに、そしてごく自然にその問題を読者に突きつけてきます。

 

 本作中にも少々神格化された雰囲気で登場する将軍ジューコフを扱った優れた評伝であるジェフリー・ロバーツの著作に、ジューコフ本人と赤軍独ソ戦中においてどのような振る舞いをしていたかという一節があるので紹介します。

 

  戦争や占領でドイツ市民を虐待したのは、赤軍兵だけではない。米国、英国、カナダ、フランスの兵隊も例外ではなかった。だが彼らが働いたレイプや略奪は、赤軍兵とは比べものにならないほど少ない。西側の報道が赤軍兵の暴虐を伝え始めると、ソ連当局は西側連合国の「規律の乱れ」を取り上げて反論した。
 ジューコフが犯罪行為を公認したり、大目に見たという証拠はない。言葉だけでなく行動をもって制止しようとした。彼は一九四五年六月三十日、「赤軍の制服を来た者ども」が略奪やレイプを働いているとして、命令がない限り駐屯地を出てはならないと厳命した。兵士が女性と関係しないように、民家に出入りする者を見たら逮捕せよと命じた。部下を制御できない士官は罰するとも警告した。一方で対外的には、赤軍の規律維持は模範的であり、ごく一部の犯罪分子を除けば何ら問題はないとの公式見解を貫いた。このような態度自体が状況の改善を妨げ、占領終了までレイプが横行する一因となった。ジューコフがレイプについてあまり深刻に考えていなかった様子は、こんな発言にもうかがえる。「兵士たちよ、ドイツ娘のスカートの裾に目を奪われて、祖国が諸君をここへ送った理由を忘れるな」。兵士と女性の問題でスターリンは、もっとあけすけだった。一九四五年四月、ユーゴスラビア共産党代表団に語ったせりふがある。「考えてもみたまえ。スターリングラードからベオグラードへと転戦した男がいるとしよう。彼は同志や最愛の人々の死体の山を見ながら、疲弊した祖国を数千キロも踏破した。そんな男がどうして、まともでいられようか? あまたの恐怖をくぐり抜けた男が、女性と楽しんだからといって、なぜ騒ぐ必要があろう」。スターリンには女性に対する性的暴力も「楽しみ」でしかなかった。(p.268)

ジェフリー・ロバーツ著『スターリンの将軍 ジューコフ白水社

 

 このような戦争指導者の論理の一部にはおそらく「相対化」があるのだと想像します。国家の謳う大義のために命を賭して命令を遂行する兵士たちの困難に比して・・・というロジックであらゆる戦争犯罪や暴力や人権侵害を漂白してしまう。そしてまた戦後における市民の戦争解釈においては「物語の取捨選択」が行われる。

 

 この小説のエピローグにはしっかりと文字数をとって次のような記述があります。

 

 彼らにより語られるドイツの「加害」とは、専らユダヤ人に対する大量虐殺であり、国防軍が東欧で働いた虐殺ではなく、ましてソ連女性への暴行でもなかった。
 そしてソ連でもドイツでも、戦時性犯罪の被害者たちは、口をつぐんだ。
 それは女性たちの被った多大な精神的苦痛と、性犯罪の被害者が被害のありようを語ることに嫌悪を覚える、それぞれ社会の要請が合成された結果であった。
 まるで交換条件が成立したかのように、ソ連におけるドイツ国防軍の女性への性暴力と、ソ連軍によるドイツ人への性暴力は、互いが口をつぐみ、互いを責めもしなくなった。
 心地よい英雄的な物語。美しい祖国の物語。
 いたましい悲劇の物語、恐ろしい独裁の物語。
 そしてそれは、独ソのどちらでも、男たちの物語だった。
 物語の中の兵士は、必ず男の姿をしていた。(p.474)

 

 この「物語の相対化」について国際政治学者の藤原帰一は「記憶の選別」という言葉を使い、著書で次にように解説しています。

 

 まず、戦争の語りは、その戦争を戦った国民のなかの犠牲者を中核として構成されることが多く、国民以外の犠牲に目が向けられることは少ない。また、戦争が勝利に終わった場合には犠牲者と並んで兵士の物語もいわば英雄譚として加えられるが、敗戦に終わった場合には兵士は公的な戦争の記憶から脱落してしまう。
 さらに、戦争の「記憶」といっても、それは当事者の私的記憶ではない。その「記憶」とは、より広く多くの人々が共有する「記憶」という形をとった公的な物語である。そこでは、当事者の私的な記憶との間にずれが生じるのはもちろん、公的な物語に含めることの難しい私的経験が物語から外されてしまう。戦争の記憶には多くの経験のなかの一部を取り出し他の部分が切り捨てられるという記憶の選別が避けられないのである。(p.133)
『戦争の条件』藤原帰一 著、集英社新書

 

 かたや娯楽作品である小説、かたや政治学者が語る戦争論にこれほどまで似たメッセージが現れるということに驚きました。本作の参考文献にジェフリー・ロバーツ著『スターリンの将軍 ジューコフ』や大木毅、山崎雅弘はありましたが、藤原帰一はありませんでした。それでもこのように別のカテゴリにある二つの書籍に類似したテクストがあるということは、この「相対化」は人間が歴史を見るにあたり根源的で普遍的な振る舞いであるということでしょう。歴史家のE・H・カーはこう断言しています。

実際、事実というのは決して魚屋の店先にある魚のようなものではありません。(中略)歴史とは解釈のことです。(p.29)

『歴史とは何か』E・H・カー著、岩波新書

 悲惨な戦争を終えて振り返る時に現れる「相対化」という作用は、すなわち戦争に突入する際に使われるロジックそのものであることに恐怖を感じるのです。

 

 

 最後に、徴兵に対して反対デモに踏み切ったロシア国民の報道を見て、やはり「自分があの立場(自身が戦争に行く、家族が戦争に採られる)ならどう振る舞うか」ということを想像せざるを得ず、そんな時に自分が何を行動原理とするだろうかというその寄す処にしたい鶴見俊輔の言葉を紹介して終わりにしたいと思います。

 

私の息子が愛読している『生きることの意味』の著者高史明の息子岡真史が自殺した。
 『生きることの意味』を読んだのは、私の息子が小学校四年生のときで、岡真史(一四歳)の自殺は、その後二年たって彼が小学校六年生くらいのときだったろう。彼は動揺して私のところに来て、
 「おとうさん、自殺をしていいのか?」
とたずねた。私の答は、
 「してもいい。二つのときにだ。戦争にひきだされて敵を殺せと命令された場合、敵を殺したくなかったら、自殺したらいい。君は男だから、女を強姦したくなったら、その前に首をくくって死んだらいい。」(p.151)

鶴見俊輔 著『教育再定義への試み』岩波現代文庫

 

 戦争において、敵兵士に殺される覚悟や誰かを殺す覚悟よりも、自分の信念が死ぬ前に自殺する自由は常にあるということは忘れずに、その覚悟は持っておきたいと考えます。

映画『茜色に焼かれる』石井裕也 監督

尾野真千子   田中良子
和田庵     田中純
片山友希    ケイ
オダギリジョー 田中陽一
永瀬正敏    中村

 

【あらすじ(公式H.P.より)】
1組の母と息子がいる。7年前、理不尽な交通事故で夫を亡くした母子。母の名前は田中良子。彼女は昔演劇に傾倒しており、お芝居が上手だ。中学生の息子・純平をひとりで育て、夫への賠償金は受け取らず、施設に入院している義父の面倒もみている。経営していたカフェはコロナ禍で破綻。花屋のバイトと夜の仕事の掛け持ちでも家計は苦しく、そのせいで息子はいじめにあっている。数年振りに会った同級生にはふられた。社会的弱者ーーそれがなんだというのだ。そう、この全てが良子の人生を熱くしていくのだからー。はたして、彼女たちが最後の最後まで絶対に手放さなかったものとは?

 

 FBの友人に勧められてAmazon Primeで鑑賞しました。面白い!

 

 こんなに良いとは予想していませんでした、私は吉田恵輔 監督『空白』よりも深田晃司 監督『よこがお』よりも本作のほうが断然好きです。

 辛いんです。辛い映画なんです。どこで脚本が展開するんだよ・・・と思いながら主人公良子(尾野真千子)と息子の純平(和田庵)が世間から受ける理不尽、合法的な社会暴力、嘲笑、冷笑、いじめを耐えていくのですが・・・ずっとしんどいやんけ!

 ところが、終盤も終盤で「あれ?ジャンル変わった??」くらいの勢いで猛烈なクライマックスの立ち上がりをします。カタルシス、とも違う、明らかな変調を映画が起こします。恐ろしい。あれだけ社会的弱者が受ける差別と社会的暴力を見せつけながら、ラストでエンターテイメントへ昇華させるとは!

 そこに尾野真千子のソース味のこってり演技を持ってきて・・・

 

「うわ、なんか、とんでもねーもん観た!(笑)」と放心。

 

 この映画には『プロミシング・ヤング・ウーマン』的にカタログのようにあらゆるタイプのクソ男が出てきます。そしてあらゆる種類のハラスメントが出てきます。主人公たちは「まぁ頑張りましょう」と諦め、「もっと怒っていい!」と互いの傷を舐め合う。その様子は理不尽な環境に対する過剰適応に見えてしまう。

 それが変化するきっかけとなったのは「怒りの発露」であり、紐帯でした。

 これは大きな意味があると思います。

 沖縄での抗議行動に幼稚で低劣な揶揄をして批判を浴びている下品なメディア人がいましたが、彼がやろうとしているのは弱者の発露する怒りの踏みつけです。そして、こつこつと努力をして労働をし、地味に社会を下支えする人々からの感情搾取です。

 下品で低劣な無教養クラスタの感情消費のためにすり潰されるのは権威や地位ではなく、常に弱者です。

 

 最近手に取ったコミック・平庫ワカ『マイ・ブロークン・マリコ』、高浜寛『SADGiRL』を始めとする一連の作品が、その弱者・・・とくに女性に光を当てているのには明らかな時代性があると思います。

 高浜寛は怒りの発露とはまた異なる諦観のような「生きていこう、まるで挫折したことがないように」というメッセージを発していますが、それとて女性であるということだけで与えられる「無理ゲー」という理不尽への抵抗だと捉えています。

 

『茜色に焼かれる』で良子(尾野真千子)はクライマックスでこう叫ぶのです。

 

「コケにするなぁあ!!」

 

 彼女が「まぁ頑張りましょう」と自分に言い聞かせて棚上げしていたもの、「もっと怒っていい!」と言われても苦笑いで棚上げしていたものは何だったのか。

 

 コケにするなと怒りをあらわにした時に守ろうとしたのはそれとは別の何かだったのか。

 

 無理ゲーに過剰適応してしまった半分死人の日本人はぜひ本作を観て、怒り方を思い出してほしいと感じました。

『神は銃弾』ボストン・テラン著(田口俊樹 訳)、文春文庫

【あらすじ(背表紙より)】
憤怒――それを糧に、ボブは追う。別れた妻を惨殺し、娘を連れ去った残虐なカルト集団を。やつらが生み出した地獄から生還した女を友に、憎悪と銃弾を手に…。鮮烈 にして苛烈な文体が描き出す銃撃と復讐の宴。神なき荒野で正義を追い求めるふたつの魂の疾走。発表と同時に作家・評論家の絶賛 を受けた、CWA新人賞受賞作。

 『音もなく少女は』で大ファンになったボストン・テランのデビュー長編です。”暴力の詩人”と呼ばれる謎多き著者によるカルト集団を題材にしたバイオレンス・ミステリー。山上容疑者が安倍元総理を銃撃した事件をきっかけに、そういえばカルト題材の小説を持っていたなと思い出して、積んでいた本棚から引っ張り出して読みました。

 全編カリフォルニアの砂漠を舞台にしていてその描写が第一の鑑賞ポイントだと思います。映画『ファーナス』や『MUD』などでも描かれているような貧しい田舎のアメリカです。決して行儀の良くない合衆国市民=犯罪者達の活き活きとした蠢き。そして犠牲者家族でもある主人公の一人ボブ・ハイタワー保安官の鬱屈と、職業人そして父親としての奮起が第二の鑑賞ポイントでしょう。前半に「おそらく彼が主人公なのだろう」と読者に示され舞台に引っ張り出されながらもどうにも情けないグズグズな性格付けで描かれる伏線が本当に良く出来ています。保安官の上司と反目してまで自主捜査に乗り出したものの腰の引けたところのある主人公ボブの心理描写はその後の相棒ケイスとの問答に説得力を持たせる大事な設定でした。さらに彼がカソリック白人男性であることで相棒ケイスに対して無自覚に差別的な言動をとっていることを描写することもこの作品では非常に重要な要素であります。

 そして私が思うに本作の最大の鑑賞ポイントはヒロインであるケイスのキャラクターです。保安官ボブのバディ役をつとめるのは薬物依存のリハビリ施設から出てきた「脱会者」の女性です。なんと彼女はボブの元妻を殺し、娘を誘拐したカルト集団にもともと属していた女性なのです。保安官と元薬物常習者のカルト脱会者がバディを組む!導入部ではずいぶんと危なっかしい不安定さで描かれるケイスですが、ボブの娘を探す旅に出てからは徐々にそのタフさと魅力を読者に見せつけ始めます。

 耐久性に加味されるリヴォルヴァーの美しさは、扱いの簡単さにある。彼女はシリンダーを回転させる。引き金も撃鉄もスムーズに動いているのがボブのところからもわかる。
 が、何よりボブの眼にとまったのは彼女の手と指だ。リヴォルヴァーの美しささえ色褪せそうなほど、銃に触れる彼女の手つきは優雅で見事だ。顔にも緊張はうかがえない。筋肉も張りつめていない。まるで禅道場から出てきたばかりの人のように落ち着き払っている。
(中略)
 彼女の動きにはある種の生々しさがある。手と武器の機械的な動きがいつのまにか詩的な舞踏のように見えてくる。太陽に照らされ、彼女は汗をかいている。腋の下に汗をかいている。彼女の汗に銃までいつしか濡れているかのように見えはじめる。ボブには何もかも免疫のないことだ。”立入禁止”と書かれたドアが一瞬開き、またすぐ閉じるまえにその中の何かを見て、何かを感じたような......そんな気がする。(P.152)

 中略した部分には銃のギミックに関する緻密な描写があって、それはそれで大変魅力的な部分ではあるのですが、私はここの過剰に蠱惑的であったり性的イメージに引き寄せ過ぎないケイスの描写が大好きです。ボブと、そして作者の「節度」が感じられるのです。その「節度」は作品を通してボブとケイスの関係性に一本筋を通しています。ドラックとレイプと暴力に溢れたこの作品で、主人公たちが主人公たり得るのは正義感や義侠心ではなく、この節度にあるのではないかとさえ感じます。敵役であるカルトのボス、サイラスの狂気や、ボブとケイスの協力者でもある彫師のぶっ飛びキャラもそれぞれがとても魅力的であるので、その線引きとして倫理観や規範意識ではなく「節度」・・・いや、お互いに対する敬意と言ったほうがよいかもしれませんが、言外にほのめかされるそういった美徳を採用しているのでしょう。それをもってしてようやく読者はボブとケイスに感情移入できます。それだけこの作品の世界は苛烈で暴力的です。主人公のボブでさえ差別意識や猜疑心にゆらゆらと思考を揺さぶられ決して善人には見えない瞬間もある。ケイスにいたっては来し方があまりにも犯罪的で素直にヒロイン的な行動原理が飲み込めない。そのどちらも作者の計算づくの造形であるのですが。

 徹底的に荒廃した情景、容赦ない暴力の中に突然差し込まれる静謐で怜悧な思索。私はこれがボストン・テランの作風の一番の魅力だと考えています。そしてケイスは「脱会」の過程で、薬物依存からの回復の過程で、書物を味方にできたために作者の問いかけの代弁者たり得る知性を備えました。

正しくあること、それは悲しみ以外の何物でもない。そして、悲しみそのものがもはや彼女には邪悪なものになっている。だから、意識しないことだ。ただやってみることだ。それこそわれわれが人生と呼ぶ暗い創造物のすべてではないか。死をもって正せない正しさなどありはしない。(P.150)

 ケイスは、ピエール・ルメートル 『その女アレックス』のアレックスに並ぶくらい、私の大好きなキャラクターになりました。

 

 

 最後に蛇足にはなりますが、作者も意図せずして日本のニュースや世相をえぐる一節がありますので、そちらを紹介して終わりにします。

「狂ってることにまちがいはないけど、彼にも動機はある。だからあたしは思うんだよ、彼があの家にはいったのには何かわけがあるって。何もなくてあんたの......その、子供をわざわざ連れてったりはしないはずだって。彼は精神異常者じゃない。そんなふうに見ると、まちがっちゃう。彼の宗教は、すべての宗教がそうであるように、とても政治的なものさ」
「政治的?」
「あたしが欲しいもの対あんたが欲しいものという政治の力学」
(P.210)

 

 

映画『クリーン ある殺し屋の献身(原題:CLEAN)』

映画『クリーン ある殺し屋の献身(原題:CLEAN)』
監督:ポール・ソレット  出演:エイドリアン・ブロディ

 良かった! ハヤカワ・ポケットミステリの味わい爆発のノワール調バイオレンス作品。現実世界の端々にある暴力のトリガーと主人公クリーン(エイドリアン・ブロディ)の殺人行為らしき記憶のフラッシュバックを見せながら、彼のトラウマの謎解きは焦らしに焦らす。街を仕切る親分の、世間知らずのボンボン息子が出所するあたりから一気にキナ臭くなるかと思えば脚本が跳ねるのはそれからずっと後。

 この長過ぎるスローテンポな前半部分がこの作品の賛否を分けるような気がします。

 わたしと言えば・・・最高に楽しめました。とにかく終始泣き顔のエイドリアン・ブロディの演技が好きで好きで、カットも表情の大写しが多いものだからもう悶絶するくらい楽しんでいました。彼を初めて認識したのは『シン・レッド・ライン』でしょうか。好きになったのは『ダージリン急行』です。『戦場のピアニスト』は観ていません。本作では回想シーンでしか笑顔を見せない、本当に痛々しい抜け殻キャラを絶品の演技で魅せてくれました。またいいカラダしてんのよ。



 ストーリーは子育てに失敗した犯罪者同士が父親としての格付けを殺し合いでカタをつけるというものです(乱暴)。

 作品の評価を損なうものではありませんが、私はエイドリアン・ブロディ演じる主人公がその職業と薬物常習と子育てを両立させようとしていた過去にそもそもの欺瞞性があると批判的な目でみました。だからこそ彼の『戦うことで折り合いを付ける』というセリフはわたしの心に響いてきたのだと思います。良い脚本でした。

 映画の作風も『ブルータル・ジャスティス』を想起させるグレン・フレシュラーのお下品食いもんシーンだったり、『キャッシュ・トラック』を反転させたような子ども起点の脚本だったり、『Mr.ノーバディ』『ライリー・ノース』を彷彿させる前準備シーンだったり、目配せ匂わせが盛りだくさんでサービス精神旺盛だと思います。アクションシーンは隘路の上からショットが大好きな『オールド・ボーイ』を明らかに意識していると思われて、ノリノリで楽しめました。



 『モンタナの目撃者』を観たときにも思ったことなのですけども、やっぱり、この一定の品質の娯楽作品を供給してくるアメリカ映画界って凄いと思うのです。

 

「あー、面白かった」

 

 映画の帰り道、それだけで幸せになれますもの。

押井守 監督『機動警察パトレイバー2 the Movie』

押井守 監督『機動警察パトレイバー2 the Movie

 

監督 押井守、原作 ヘッドギア、脚本 伊藤和典

声の出演               後藤喜一              大林隆之介

        南雲しのぶ           榊原良子

        泉野明                  冨永みーな

        篠原遊馬              古川登志夫

        荒川茂樹              竹中直人

        柘植行人              根津甚八

 もう20年ぶりくらいに観直したのですけど最高のポリティカルスリラーですね。面白い! 押井守監督のナンバー1は『スカイ・クロラ』だったのですが、今回の鑑賞でこっちが1位に入れ替わったかもしれません。

 テロリスト柘植(つげ)の声は根津甚八で、自衛隊のキーマン荒川の声は竹中直人という中高生(リアルタイム当時の私にも)にはまったく響かないなんとも贅沢な出演陣。

 資本で買われる欺瞞的平和、一部先進国の安寧のために犠牲を強いられる周辺国の不可視化、役人の保身や政府の日和見主義、それらを批判する難解な会話劇を飲み込めない方にはぜんぜん面白くともなんともないであろう、ほとんどアクションシーンのないSFロボットアニメです。クライマックスのカタルシスで言えばサイバー犯罪をテーマにした1作目に軍配が上がるかもしれませんが、私にはとにかく南雲隊長(画像の女性)の切ないロマンス(三角関係とまで拡大解釈してもよいかもしれません)や職業倫理と義憤と情念の間で葛藤する大人の女性の気持ちのゆらぎを見事に描いている本作が魅力的でたまりません。本当に南雲隊長に惚れてしまいました。それに、顔は見えないのですが、南雲隊長の母親の着物姿の背中の演出、あれには思い出し泣きしそうになります。

 シリーズの主要キャラクターである泉野明や篠原遊馬以下旧特車2課メンバーの登場シーンが驚くほどの勇気でばっさりと間引かれているのですが、それでも際立ったシーンをそれぞれ割り当てられて存在感を発揮しています。私はおやっさんこと榊清太郎が自宅前に集まった旧特車2課のメンバーに激を飛ばすシーンが好きで好きでたまりません。その前の後藤隊長の間延びしたセリフが本当に良く生きています。

 そして本来の主役である泉野明が「わたし、レイバー好きの女の子で終わりたくないの」と遊馬に告げる短いシーケンスは、自身の憧憬や警察官に求められる正義、つまりプロフェッショナリズムさえも超えてもっと人間味のある連帯のために行動する覚悟を見せる卓越したシーンだったと思います。あの短いシーンで南雲隊長の行動原理や後藤隊長の生き様を間接的に補強している重層的な演出には思わず声が出ました。

 褒めてばかりですが、難点を言えば、高温多湿の環境(石像のシーンからカンボジアと推察される)で機械化部隊を運用したいという思いでPKOにレイバー隊として参加した柘植は交戦許可がおりずにそこで部隊を全滅させてしまうのですが、自衛隊の作戦行動の前提をいやほどわかっているはずの柘植がそれをテロの動機とするストーリーは、手に入れたおもちゃで遊びたいガキが怪我したような印象で軽薄な印象を受けるという点です。映画『ピースメーカー』のテロリストもただの私憤ですが、もう少し納得感があったような。

 とは言え、脚本の伊藤和典(『空母いぶき』『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』)は緻密で隙きのない、かつ情緒的で時代性を超越する素晴らしい世界観を見せてくれました。

 

 凄い映画です。大好きです。