ろぐの垂れ流し

LOVE定額の相手に着信拒否されたことあるか?!

デヴィッド・ミショッド 監督『キング』

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 ざっくり1400年頃、ティモシー・シャラメが放蕩息子のイングランド王子ハル(後のヘンリー5世)を演じ、内乱や外圧に抗い国内平定のためにやむを得ずシャルル6世統治下のフランスに侵攻する話です。

 

 もうおじさんは美しいシャラメを夢中で追いかけて、それだけで満足の2時間(ちょっと長い)でした。『ゲーム・オブ・スローン』ほど人間関係や権謀術数が複雑ではありませんし、ロマンスやお色気はバッサリ切ってあるので、私はこちらのほうが飲み込みやすいです。当時の騎兵、甲冑兵のブサイクな戦闘や、はなもちならんキリスト教世界も美化せず描いていて好印象でした。

 

 それと、脇役のジョエル・エドガートンがずるいくらい格好良かったですね。『レッド・スパロー』『ブラック・スキャンダル』の印象はあまり強くないのですけど、本作では魅力たっぷりでした。

 

 「8月の砲声」ではありませんが、戦争というのは本当にしょーもない誤解やはかりごとからはじまるのですね。ミステリ風味のオチは味わい深いです。

 

 『DUNE』の次回作が楽しみです。

三宅唱監督『ケイコ 目を澄ませて』主演:岸井ゆきの

 昨年末にユーロスペースで鑑賞して、なんとなく整理が付かず投稿していませんでした。


 一緒に鑑賞した友人が「彼女(主人公)に起こることは誰にでも起こりうる。ふーん、って感じ。」と言っていました。また、これは純粋に物語の組み立てとして評しているのだと思うのですが作家の水原秀策が「映画の主人公を甘やかし過ぎ。彼女に問題を解決する(脚本を前に進める)主体性が無い。」と評していました。私には映画と同じくらいそれらの本作に対する感想が心に引っかかりこの映画に向き合うことを保留していたのです。


 主人公女性の聴覚障害を舞台装置として消費する構えがそもそも我々鑑賞者に植え付けられていないか?


 『わたしは最悪。』や『フランシス・ハ』の主人公に、ただの個人特性のグラデーションである聴覚障害を脚本に加えただけで、鑑賞の構えが変わったりしないのか?


 私自身に「24時間テレビ愛は地球を救う」的な暴力は内面化されていないのか?


 映画の冒頭で主人公の設定を知るにつれ、仕事も収入もきちんとあり、職場の人たちの理解も有り、親兄弟がいることへの意外性を感じたことに猛烈な自己嫌悪を感じるのです。聴覚障害者がプロボクシングをしているというリードだけで、苛烈な環境や人生を想像していた自分をとにかく恥じました。

 

 岸井ゆきの演じる主人公ケイコが作中で最も人間関係を密に描かれる相手、ジムの会長を三浦友和が演じていて、この二人の交流は本作のメッセージのコアだと思いますが、三浦友和は手話で話すことはせず、ひたすらボクシング技術で主人公ケイコと対話をするのです。さらには脚本の展開でキーとなる、一つは回想シーン、一つは終盤の1対1の対話シーンで「もっと大きな声で返事を」とろうあ者であるケイコに発声を求めます。

 

 そこに残酷さやハラスメントの要素は一切なく、ひたすら二人の人間の交流の温かさと愛情があって、やっていることの表象と我々が受け取る心象のギャップにとても驚きました。

 

 ある女性がキャリアとモチベーションに悩む当たり前の姿を、聴覚障害という特性を包摂して、極めて映画的に完成度の高い物語を我々に提示してくれた本作は、とても優れた映画体験だったのだと思い至りました。

 

ジェニファー・ピーダム監督『クレイジー・フォー・マウンテン』

 Amazon Primeの配信で鑑賞しましたが・・・ これはスクリーンで観ておけばよかった!

 登山、フリークライミング、スキー、スノーボード、バイク、ウイングスーツ、その他諸々の山にまつわる冒険、エクストリームスポーツの歴史と山岳信仰、人間の愚かしいほどの征服欲や開拓精神、そして生き物としての弱さや強さを描くドキュメンタリー作品です。

 圧倒的な迫力の映像とオーストラリア室内管弦楽団の素晴らしいサウンドトラックで自宅での配信鑑賞(残念ながらHDのみ)でも十分な迫力でした。とても耳に心地よい含蓄あるナレーションは地味にウィレム・デフォーが声を担当していて、テキストは作家のロバート・マクファーレンが担当。これが値打ち物です。

 ウインタースポーツもマリンスポートもしない、寒いのとか危ないのとか辛いのは大嫌いなわたし、横山秀夫クライマーズ・ハイ』の名台詞「降りるために登るんさ」もさっぱりピンとこないインドア派ですが、本作の途中でスキーヤースノーボーダーが次々とコケたり雪崩に巻き込まれたりするシーケンスを熱いほうじ茶をすすりながら眺めているのがやっぱり一番楽しい山との触れ合いだなと改めて実感しました。

 映画全体のメッセージとしては、山に対する敬意が貫かれていて、そこに果敢にチャレンジする小さき人間を時に皮肉を交えて観察し、自然破壊や観光地化された山岳地での労働搾取にもしっかりと目配せがあって好印象でした。

 とにかく、本作を一本編集するのにどれだけの素材を準備したんだろうという心打つタイムラプス、ドローン撮影、アクションカム、マクロ撮影の映像が満載です。そこらへんのYouTuberには絶対に真似できない上質な映像作品になっていました。

 季節が寒いうちに観ておくべきオススメの一本です。 

『シナモンとガンパウダー』イーライ・ブラウン著、三角和代訳、創元推理文庫

 作家の深緑野分氏がTwitterでお勧めしていたので手にとって読んでみましたが、たしかに面白い!設定がユニークなので、いつもはしない公式の内容紹介を引用します。

<内容紹介>
「命が惜しければ最高の料理を作れ!」1819年、イギリスの海辺の別荘で、海賊団に雇い主の貴族を殺害されたうえ、海賊船に拉致されてしまった料理人ウェッジウッド。女船長マボットから脅されて、週に一度、彼女だけに極上の料理を作ることに。食材も設備も不足している船で料理を作るため、経験とひらめきを総動員して工夫を重ねるウェッジウッド。徐々に船での生活に慣れていくが、やはりここは海賊船。敵対する勢力とのマボットたちの壮絶なる戦いが待ち受けていて……。面白さ無類、唯一無二の海賊冒険×お料理小説!


 東インド会社がモデルになっている大英帝国の“ペンドルトン貿易会社”が三角貿易ブイブイ言わせていた頃の話です。英国支配下のインドが舞台である映画『RRR』の100年前ですね。『RRR』でもナチスばりに悪辣に描かれている大英帝国ですが、この小説でも女海賊船長マボットがどうして私掠を繰り返すのかという理由が明らかになるにつれて「なんちゅー悪どいことを・・・」と読んでいるこちらにも怒りがこみ上げてきます。もちろん史実に沿った話であるわけで、読後にはエリザベス2世が亡くなった際に旧植民地である国の人々から帝国支配の象徴として彼女に批判の声が上がったというのも宜なるかな、と報道の映像を思い返しました。

小説に話を戻しますと、内容紹介からソリッドシチュエーションものかなと想像していました。海賊船の独房と厨房でねっとりじとじとと知略を尽くして脱出を試みるといったようなストーリーだと思っていたのですが、実際にその要素を踏まえつつも、舞台は海に陸に港に、人間関係も縦横無尽に広がり、とても抜けの良い爽快な読書体験でした。

 私がこの本で好きなところは、主人公の料理人ウェッジウッドが非マッチョなところです。もともと孤児で教会に育てられ、愛していた妻に先立たれて孤独な身。いろいろあって偏屈で理屈っぽくてウジウジしている。しかも恨みがましい。はっきりいって活劇小説の主人公にはふさわしくなさそうなこの料理人が中盤以降に実に愛すべき人物像として掘り下げられ、料理でも料理以外でもクールな活躍をしだすのです。そこには間違いなく個性豊かな海賊船員との交流や、マボットの辛辣で痛烈な権力批判を聞き彼女の目を通して世界の実像を学ぶ過程が影響していて、ボストン・テラン『神は銃弾』で主人公男性警官が娘の捜索に協力してくれる元薬物中毒者でカルトメンバーだった経験のあるヒロイン女性との関係性の中で自分の差別的な道徳観やジェンダー観を書き換え、マチズモを捨てていくストーリラインととても良く似ていて非常に好ましいものでした。堅物だった料理人ウェッジウッドがどんどん男前に格好良くなっていき、多様性に富んだ価値観を身に付けいく。まさかそのプロットはないだろうと思っていた方向に話が盛り上がっていく後半は意外でしたが、それが驚きの後にはすんなり読者の腹に収まる仕込みが前半、中盤にしてあるのですよね。とても巧いと思いました。

 もちろん、主人公が料理人でその腕を買われて不幸にも拉致されてしまったわけですから、作中には料理や食事の魅力的な表現が満載です。そんな中でも、主人公ウェッジウッドが自分を拉致した女海賊船長マボットに味覚についての講義をする非常に豊かで美しい一節があるので、それを引用して終わりにしたいと思います。少し長いですがお付き合いください。

「教えて」―マボットが身を乗りだす―「あたしにこんな料理を教えるとしたら、最初に身につけなくちゃならない心得はなに?」
体内のワインが、寿命が七日間延びたという興奮と合わさった。「鼻と口を混同してはいけません」わたしは話を始めた。
「そんなこと、しないよ」
チェンバロだと、心地よい音を出すには、複数の鍵盤を調和するように叩かねばならないですね。料理の風味もそうなんですよ」情熱を晒しすぎたと感じ、ここで顔を赤らめた。だが、彼女は笑わなかった。「鼻で感じとれるものは無限ですが、口は六つしか感じられない」
「これはいいね」マボットはにっこりした。「洗練された会話が恋しかった。あんたは嫌みたらしいけれど、息抜きになる。あたしのクルーは気のいい連中だけど、晩餐の話し相手じゃない。さあ、続けて」
「味覚というのは、人生に相似しているんです。塩味は血と涙、勝利と敗北のエキスです。色なら赤。酸味は注目を呼びかけるもの、尻をぴしゃりと叩くもの、留意せよと促すトゲの一刺し。色ならコマドリの翼の下にちらりと見える黄」
「あんたは哲学者でもあるんだね!」
ふたりともワインを飲んだ。ウサギはこの場を離れてから、またもどってきた。見えないドアを通れるみたいに、暗闇から明るいこちらへ駆け足で行ったりきたりする能力を持っているようだ。「続けて、いまのでふたつ」
「甘味は歓迎してくれる手、母乳、温かいベッドです。色なら夕暮れのオレンジ。苦味は厳しい言葉の裏にある愛、得がたい不屈の精神です。色なら緑。渋味は強い風。引き締め、清浄、自立をもたらします。冷たい水の青だ」
この考えかたは長年にわたってわたしのなかで醸造されたものだが、誰にも話したことがなかった。ワインはわたしが慣れ親しんだものより強かった。
彼女は目を閉じ、頭がつくまで椅子にもたれた。
「〈天国の門〉が最後の風味です」わたしは言った。「めったに話題にはなりません。軟口蓋の暗い斜面に息吹いているもの。ごく特別なブイヨンでのみ発見できるのです。神がアダムに命を吹きこまれた後に居座った味。土塊を生き生きと動かす風味。紫です」(P.120-122)

 

今泉力哉監督『窓辺にて』

 12月1日映画の日の夜に、『街の上で』がたまらん好きな今泉力哉監督の新作『窓辺にて』を鑑賞してきました。

 

 『街の上で』よりもずっと笑いもテンポも抑えてきたなぁと思っていたら、序盤の気まずさと居心地悪さを強調する映画のモードが中盤からぶんぶんバイブス効かせ始めて、ラストにかけて脚本の妙技の天丼状態。

 

 うわー、面白かった!

 

 「感動した」とか「心に響いた」とかじゃないのです。『街の上で』よりも、今泉力哉氏が脚本を手がけた『愛なのに』よりも、本作では笑いがぐっと絞られているのだけど、それでも鑑賞後に一番初めに出てくる感想は「面白かった!」なんですよね。

 

 『十三人の刺客』の演技がトラウマになっている稲垣吾郎の主演作を初めて観たのですが素晴らしかったです。作り過ぎない適当に力を抜いた演技の塩梅が最高。当て書きオリジナル脚本が存分に活かされたキャラ造形になっていました。

 

 食事のシーンも大好きなシーンが沢山ありました。今泉監督は意識的に飲み食いをドラマに盛り込んでくるので大好きなのです。マスカットを皮ごとシャリシャリと食べる咀嚼音の気詰まり感とか、おかんの握るでっかい塩結びとか、もうほんとたまらん。遠慮無しに咀嚼音を録っていく録音も良かったなぁ。

 

【ここからネタバレ可能性あり】

 

 『街の上で』では主人公の青年、荒川青(若葉竜也)が自意識過剰の空回りを卒業して、下北沢という街のメンバーシップを獲得する成長物語だと捉えているのですが、本作の稲垣吾郎演ずる市川茂巳は既婚の中年男性で、鑑賞後すぐには私にはこの映画の構造というかテーマが少し捉えづらかったです。役柄への共感が邪魔をしたのか・・・作中なぜか主人公市川茂巳の言動に身につまされるところが多かったです。私はあんなに格好良い男ではないのに。

 中盤に稲垣吾郎がある人物から言われる「あなたは私に似ている。心の中で人を見下しているところがある。だから人に相談できない。相談されることはあっても。」というセリフは今泉力哉監督のツイートにも言及があるので明らかにこの映画のキーになるものなのでしょうが、映画前半を観て明らかに善人で好印象の役柄である市川茂巳になぜ「心の中で人を見下している」という性格づけをする必要があるのか鑑賞中に私は戸惑いました。この「人を見下す」というワードがちょうど中盤にポンと投げかけられて、鑑賞者ののどに引っ掛かります。人に言われればとても居心地の悪い評価です。だけどもその居心地の悪さをもって、前半の市川茂巳のモヤモヤを振り返り、そしてラストに向かって、その居心地悪さが全て綺麗さっぱりハーピーエンドとはいかないまでも、いかに軽くなっていくのかに鑑賞者をフォーカスさせるとても重要なシーンでした。

 

 居心地の悪さ、モヤモヤがこのシーンを起点に別の感情にクロスフェードしていくのです。

 

 ラスト近くで茂巳が劇中小説『ラ・フランス』を読んでいる時に、その劇中小説の著者を演じる玉城ティナの朗読が被せられます。そこで一際印象に残るのが「(大意)正直さは何よりも素晴らしい」というものでした。冒頭から、玉城ティナの朗読が茂巳の心象にリンクしている演出が繰り返されていることから、茂巳が「正直さ」に行きついたことが表現されていると捉えたのですが、それがなんとも嬉しいというかホッとするというか。

 なぜなら、そこで私は茂巳が前半でモヤモヤしながら「人を見下している」と評される印象を周囲に与えていたその原因は、自己愛よりももっと切実な「心の鎧」の作用だったのだと思えてきたのです。茂巳が、大袈裟な反省や自己変革の経ることではなく、ただ他人の受容と自己開示の振り幅をほんの少しずつ大きくしていく過程で、前よりもずっとずっと生きやすい「正直さ」という地平に立てたのだと考えたのです。それが嬉しい。中年男性のアイデンティティクライシスに、冒険や背徳的なロマンスや酒や薬物や暴力も無しに、ただただ良き人として良き会話を重ねる努力を続けることで、生きやすい自分の型を身に付けていく。なんだか、自分にでも手の届きそうな境地で素敵なのです。

 

 鑑賞からすこし時間がたって、私なりになんとなくなぞられたこのストーリーラインは、やっぱり驚くほど『街の上で』に根っこではつながっていて、主人公が自縄自縛のギクシャクから開放されていく遷移(『街の上で』では成長)の過程を丁寧に描いているのだと思います。「引いて足す」をすることで、無くなってしまった愛情関係を再定義し、鈍ってしまった自分の感情のモーメントを再構築していく構図はジェイク・ギレンホール主演の『雨の日は会えない、晴れた日は君を想う』にも通じるところがあるなと感じました。

 

 全編おだやかなトーンで進む本作ですが、茂巳が決定的にニューバージョンの彼になっていく瞬間を映すエキサイティングなシーンがあります。私には茂巳が妻の紗衣(中村ゆり)に不倫のことを知っていると打ち明ける12分の長回しよりもそのシーンの方が素晴らしいと思いました。その妻の紗衣との会話シーンは会話が進みながらパワーバランスがぐらぐらと変わっていく絶妙の脚本と演出で確かに本作の白眉とも言えるシーンですが、私が最も好きなのは妻(そのシーンのタイミングでは元妻)紗衣が編集担当に就いており、かつ肉体関係にあった若手売れっ子作家の荒川円(佐々木詩音)と正対して、紗衣との関係や創作について会話をするシーンです。声を荒らげることもないタイマンシーン!このシーンの稲垣吾郎の格好良いこと!さすがサイコパスなお殿様を演じて賞を獲った役者です。作中、まるでふわふわと漂流してきたような茂巳が、ここにきて大人の貫禄とプロフェッショナルとしての凄みをもって、どーんと若手作家に胸を貸すわけです。瞬間瞬間に鋭利な感情を差し込みながら、それでも相手に対する理解と敬意を忘れず。

 

 自分の感情は自分で決めるという怒りと、相手への受容を同時に大きく発動した静かで熱い、鬼気迫りながらも穏やかな、とんでもなく凄い演技合戦でした。あのシーンだけで映画チケット代の元を取ったと思えます。

 

 あまり多くの出演作を観ていなかったのですが、稲垣吾郎はとんでもなく凄い役者でした。

逢坂冬馬 著『同志少女よ、敵を撃て』早川書房

 今年の夏休みに岸田総理が本作を読む予定だという報道があってすっかり興が冷めていたのですが、プーチン大統領が予備役の動員を決定しロシア国民が反対のデモをしているというニュースに触れたとき、自分の中のやりきれなさに整理がつかず、積読書棚から引っ張り出して読みました。

 

 内容と全く関係のない話で恐縮ですし完全に私の好みの問題なのですが、雪下まゆ氏(朝倉秋成『六人の嘘つきな大学生』、辻村深月『傲慢と善良』、福田和代『梟の一族』、乾ルカ『コイコワレ』などの表紙を手掛ける)のこのカヴァーデザインは作品の世界観をミスリードしているのではないかなという印象が拭えません。デッサンも狂っていませんか?(主人公セラフィマの顔に比して、軍用ライフルSVT-40が小さい)

 

画像引用元:Amazonモシンナガン ☭ 91/30 SVT-40 PU スナイパー スコープ レンズカバー 実物 

 

  私自身、SNSの口コミが耳に入らず広告や帯の文句や受賞歴だけでしたらこの表紙のイメージのせいで手にとることはなかったと思います。狙いとしては読者層を広げて戦争文学という枠を少しでも取っ払いたいというものがあったのだと想像するのですが、本作と同じくシスターフッドを題材としたバイオレンス・アクションの名作、王谷晶『ババヤガの夜』のカヴァーデザインの成功と比較してしまうのです。

 

 ”がわ”の話が長くなりすぎましたが、この『同志少女よ、敵を撃て』という小説の内容はもちろん素晴らしかったです。文体がペタペタして喉越しが悪くなる部分もいくつかありましたが、そりゃ評判になるなという傑作でした。なにが素晴らしいかというと、独ソ戦の悲惨さを伝える史実ベースの綿密さと反戦メッセージに、きちんと戦争アクションノベルのエンターテイメント性をバランスさせてきたところです。狙撃兵の訓練なんてなかなか国産文学では読めない内容ですよね。戦闘シーンの描写はスピード感重視で盛り上げを優先しつつ、一作を通じて反戦、フェニズム、殺人行為への思索が太い糸として織り込まれています。特筆すべきは狙撃手として卓越しようとするプロフェッショナリズムとその哲学に、殺人行為への陶酔を強く否定する揺り返しのような精神的反作用を必ず書き込んでいるところです。

 

 さらに戦争によって引き起こされる女性への暴力や性加害を重要なテーマとして扱っています。これは特に男性読者がいわゆる「戦争モノ」を読んで痛快さを消費するにあたっては非常に苦い、やりどころに困る不都合な真実であるでしょう。実在した女性だけの狙撃小隊を主役に据えたことで否応なしに、そしてごく自然にその問題を読者に突きつけてきます。

 

 本作中にも少々神格化された雰囲気で登場する将軍ジューコフを扱った優れた評伝であるジェフリー・ロバーツの著作に、ジューコフ本人と赤軍独ソ戦中においてどのような振る舞いをしていたかという一節があるので紹介します。

 

  戦争や占領でドイツ市民を虐待したのは、赤軍兵だけではない。米国、英国、カナダ、フランスの兵隊も例外ではなかった。だが彼らが働いたレイプや略奪は、赤軍兵とは比べものにならないほど少ない。西側の報道が赤軍兵の暴虐を伝え始めると、ソ連当局は西側連合国の「規律の乱れ」を取り上げて反論した。
 ジューコフが犯罪行為を公認したり、大目に見たという証拠はない。言葉だけでなく行動をもって制止しようとした。彼は一九四五年六月三十日、「赤軍の制服を来た者ども」が略奪やレイプを働いているとして、命令がない限り駐屯地を出てはならないと厳命した。兵士が女性と関係しないように、民家に出入りする者を見たら逮捕せよと命じた。部下を制御できない士官は罰するとも警告した。一方で対外的には、赤軍の規律維持は模範的であり、ごく一部の犯罪分子を除けば何ら問題はないとの公式見解を貫いた。このような態度自体が状況の改善を妨げ、占領終了までレイプが横行する一因となった。ジューコフがレイプについてあまり深刻に考えていなかった様子は、こんな発言にもうかがえる。「兵士たちよ、ドイツ娘のスカートの裾に目を奪われて、祖国が諸君をここへ送った理由を忘れるな」。兵士と女性の問題でスターリンは、もっとあけすけだった。一九四五年四月、ユーゴスラビア共産党代表団に語ったせりふがある。「考えてもみたまえ。スターリングラードからベオグラードへと転戦した男がいるとしよう。彼は同志や最愛の人々の死体の山を見ながら、疲弊した祖国を数千キロも踏破した。そんな男がどうして、まともでいられようか? あまたの恐怖をくぐり抜けた男が、女性と楽しんだからといって、なぜ騒ぐ必要があろう」。スターリンには女性に対する性的暴力も「楽しみ」でしかなかった。(p.268)

ジェフリー・ロバーツ著『スターリンの将軍 ジューコフ白水社

 

 このような戦争指導者の論理の一部にはおそらく「相対化」があるのだと想像します。国家の謳う大義のために命を賭して命令を遂行する兵士たちの困難に比して・・・というロジックであらゆる戦争犯罪や暴力や人権侵害を漂白してしまう。そしてまた戦後における市民の戦争解釈においては「物語の取捨選択」が行われる。

 

 この小説のエピローグにはしっかりと文字数をとって次のような記述があります。

 

 彼らにより語られるドイツの「加害」とは、専らユダヤ人に対する大量虐殺であり、国防軍が東欧で働いた虐殺ではなく、ましてソ連女性への暴行でもなかった。
 そしてソ連でもドイツでも、戦時性犯罪の被害者たちは、口をつぐんだ。
 それは女性たちの被った多大な精神的苦痛と、性犯罪の被害者が被害のありようを語ることに嫌悪を覚える、それぞれ社会の要請が合成された結果であった。
 まるで交換条件が成立したかのように、ソ連におけるドイツ国防軍の女性への性暴力と、ソ連軍によるドイツ人への性暴力は、互いが口をつぐみ、互いを責めもしなくなった。
 心地よい英雄的な物語。美しい祖国の物語。
 いたましい悲劇の物語、恐ろしい独裁の物語。
 そしてそれは、独ソのどちらでも、男たちの物語だった。
 物語の中の兵士は、必ず男の姿をしていた。(p.474)

 

 この「物語の相対化」について国際政治学者の藤原帰一は「記憶の選別」という言葉を使い、著書で次にように解説しています。

 

 まず、戦争の語りは、その戦争を戦った国民のなかの犠牲者を中核として構成されることが多く、国民以外の犠牲に目が向けられることは少ない。また、戦争が勝利に終わった場合には犠牲者と並んで兵士の物語もいわば英雄譚として加えられるが、敗戦に終わった場合には兵士は公的な戦争の記憶から脱落してしまう。
 さらに、戦争の「記憶」といっても、それは当事者の私的記憶ではない。その「記憶」とは、より広く多くの人々が共有する「記憶」という形をとった公的な物語である。そこでは、当事者の私的な記憶との間にずれが生じるのはもちろん、公的な物語に含めることの難しい私的経験が物語から外されてしまう。戦争の記憶には多くの経験のなかの一部を取り出し他の部分が切り捨てられるという記憶の選別が避けられないのである。(p.133)
『戦争の条件』藤原帰一 著、集英社新書

 

 かたや娯楽作品である小説、かたや政治学者が語る戦争論にこれほどまで似たメッセージが現れるということに驚きました。本作の参考文献にジェフリー・ロバーツ著『スターリンの将軍 ジューコフ』や大木毅、山崎雅弘はありましたが、藤原帰一はありませんでした。それでもこのように別のカテゴリにある二つの書籍に類似したテクストがあるということは、この「相対化」は人間が歴史を見るにあたり根源的で普遍的な振る舞いであるということでしょう。歴史家のE・H・カーはこう断言しています。

実際、事実というのは決して魚屋の店先にある魚のようなものではありません。(中略)歴史とは解釈のことです。(p.29)

『歴史とは何か』E・H・カー著、岩波新書

 悲惨な戦争を終えて振り返る時に現れる「相対化」という作用は、すなわち戦争に突入する際に使われるロジックそのものであることに恐怖を感じるのです。

 

 

 最後に、徴兵に対して反対デモに踏み切ったロシア国民の報道を見て、やはり「自分があの立場(自身が戦争に行く、家族が戦争に採られる)ならどう振る舞うか」ということを想像せざるを得ず、そんな時に自分が何を行動原理とするだろうかというその寄す処にしたい鶴見俊輔の言葉を紹介して終わりにしたいと思います。

 

私の息子が愛読している『生きることの意味』の著者高史明の息子岡真史が自殺した。
 『生きることの意味』を読んだのは、私の息子が小学校四年生のときで、岡真史(一四歳)の自殺は、その後二年たって彼が小学校六年生くらいのときだったろう。彼は動揺して私のところに来て、
 「おとうさん、自殺をしていいのか?」
とたずねた。私の答は、
 「してもいい。二つのときにだ。戦争にひきだされて敵を殺せと命令された場合、敵を殺したくなかったら、自殺したらいい。君は男だから、女を強姦したくなったら、その前に首をくくって死んだらいい。」(p.151)

鶴見俊輔 著『教育再定義への試み』岩波現代文庫

 

 戦争において、敵兵士に殺される覚悟や誰かを殺す覚悟よりも、自分の信念が死ぬ前に自殺する自由は常にあるということは忘れずに、その覚悟は持っておきたいと考えます。

映画『茜色に焼かれる』石井裕也 監督

尾野真千子   田中良子
和田庵     田中純
片山友希    ケイ
オダギリジョー 田中陽一
永瀬正敏    中村

 

【あらすじ(公式H.P.より)】
1組の母と息子がいる。7年前、理不尽な交通事故で夫を亡くした母子。母の名前は田中良子。彼女は昔演劇に傾倒しており、お芝居が上手だ。中学生の息子・純平をひとりで育て、夫への賠償金は受け取らず、施設に入院している義父の面倒もみている。経営していたカフェはコロナ禍で破綻。花屋のバイトと夜の仕事の掛け持ちでも家計は苦しく、そのせいで息子はいじめにあっている。数年振りに会った同級生にはふられた。社会的弱者ーーそれがなんだというのだ。そう、この全てが良子の人生を熱くしていくのだからー。はたして、彼女たちが最後の最後まで絶対に手放さなかったものとは?

 

 FBの友人に勧められてAmazon Primeで鑑賞しました。面白い!

 

 こんなに良いとは予想していませんでした、私は吉田恵輔 監督『空白』よりも深田晃司 監督『よこがお』よりも本作のほうが断然好きです。

 辛いんです。辛い映画なんです。どこで脚本が展開するんだよ・・・と思いながら主人公良子(尾野真千子)と息子の純平(和田庵)が世間から受ける理不尽、合法的な社会暴力、嘲笑、冷笑、いじめを耐えていくのですが・・・ずっとしんどいやんけ!

 ところが、終盤も終盤で「あれ?ジャンル変わった??」くらいの勢いで猛烈なクライマックスの立ち上がりをします。カタルシス、とも違う、明らかな変調を映画が起こします。恐ろしい。あれだけ社会的弱者が受ける差別と社会的暴力を見せつけながら、ラストでエンターテイメントへ昇華させるとは!

 そこに尾野真千子のソース味のこってり演技を持ってきて・・・

 

「うわ、なんか、とんでもねーもん観た!(笑)」と放心。

 

 この映画には『プロミシング・ヤング・ウーマン』的にカタログのようにあらゆるタイプのクソ男が出てきます。そしてあらゆる種類のハラスメントが出てきます。主人公たちは「まぁ頑張りましょう」と諦め、「もっと怒っていい!」と互いの傷を舐め合う。その様子は理不尽な環境に対する過剰適応に見えてしまう。

 それが変化するきっかけとなったのは「怒りの発露」であり、紐帯でした。

 これは大きな意味があると思います。

 沖縄での抗議行動に幼稚で低劣な揶揄をして批判を浴びている下品なメディア人がいましたが、彼がやろうとしているのは弱者の発露する怒りの踏みつけです。そして、こつこつと努力をして労働をし、地味に社会を下支えする人々からの感情搾取です。

 下品で低劣な無教養クラスタの感情消費のためにすり潰されるのは権威や地位ではなく、常に弱者です。

 

 最近手に取ったコミック・平庫ワカ『マイ・ブロークン・マリコ』、高浜寛『SADGiRL』を始めとする一連の作品が、その弱者・・・とくに女性に光を当てているのには明らかな時代性があると思います。

 高浜寛は怒りの発露とはまた異なる諦観のような「生きていこう、まるで挫折したことがないように」というメッセージを発していますが、それとて女性であるということだけで与えられる「無理ゲー」という理不尽への抵抗だと捉えています。

 

『茜色に焼かれる』で良子(尾野真千子)はクライマックスでこう叫ぶのです。

 

「コケにするなぁあ!!」

 

 彼女が「まぁ頑張りましょう」と自分に言い聞かせて棚上げしていたもの、「もっと怒っていい!」と言われても苦笑いで棚上げしていたものは何だったのか。

 

 コケにするなと怒りをあらわにした時に守ろうとしたのはそれとは別の何かだったのか。

 

 無理ゲーに過剰適応してしまった半分死人の日本人はぜひ本作を観て、怒り方を思い出してほしいと感じました。