ろぐの垂れ流し

LOVE定額の相手に着信拒否されたことあるか?!

『シナモンとガンパウダー』イーライ・ブラウン著、三角和代訳、創元推理文庫

 作家の深緑野分氏がTwitterでお勧めしていたので手にとって読んでみましたが、たしかに面白い!設定がユニークなので、いつもはしない公式の内容紹介を引用します。

<内容紹介>
「命が惜しければ最高の料理を作れ!」1819年、イギリスの海辺の別荘で、海賊団に雇い主の貴族を殺害されたうえ、海賊船に拉致されてしまった料理人ウェッジウッド。女船長マボットから脅されて、週に一度、彼女だけに極上の料理を作ることに。食材も設備も不足している船で料理を作るため、経験とひらめきを総動員して工夫を重ねるウェッジウッド。徐々に船での生活に慣れていくが、やはりここは海賊船。敵対する勢力とのマボットたちの壮絶なる戦いが待ち受けていて……。面白さ無類、唯一無二の海賊冒険×お料理小説!


 東インド会社がモデルになっている大英帝国の“ペンドルトン貿易会社”が三角貿易ブイブイ言わせていた頃の話です。英国支配下のインドが舞台である映画『RRR』の100年前ですね。『RRR』でもナチスばりに悪辣に描かれている大英帝国ですが、この小説でも女海賊船長マボットがどうして私掠を繰り返すのかという理由が明らかになるにつれて「なんちゅー悪どいことを・・・」と読んでいるこちらにも怒りがこみ上げてきます。もちろん史実に沿った話であるわけで、読後にはエリザベス2世が亡くなった際に旧植民地である国の人々から帝国支配の象徴として彼女に批判の声が上がったというのも宜なるかな、と報道の映像を思い返しました。

小説に話を戻しますと、内容紹介からソリッドシチュエーションものかなと想像していました。海賊船の独房と厨房でねっとりじとじとと知略を尽くして脱出を試みるといったようなストーリーだと思っていたのですが、実際にその要素を踏まえつつも、舞台は海に陸に港に、人間関係も縦横無尽に広がり、とても抜けの良い爽快な読書体験でした。

 私がこの本で好きなところは、主人公の料理人ウェッジウッドが非マッチョなところです。もともと孤児で教会に育てられ、愛していた妻に先立たれて孤独な身。いろいろあって偏屈で理屈っぽくてウジウジしている。しかも恨みがましい。はっきりいって活劇小説の主人公にはふさわしくなさそうなこの料理人が中盤以降に実に愛すべき人物像として掘り下げられ、料理でも料理以外でもクールな活躍をしだすのです。そこには間違いなく個性豊かな海賊船員との交流や、マボットの辛辣で痛烈な権力批判を聞き彼女の目を通して世界の実像を学ぶ過程が影響していて、ボストン・テラン『神は銃弾』で主人公男性警官が娘の捜索に協力してくれる元薬物中毒者でカルトメンバーだった経験のあるヒロイン女性との関係性の中で自分の差別的な道徳観やジェンダー観を書き換え、マチズモを捨てていくストーリラインととても良く似ていて非常に好ましいものでした。堅物だった料理人ウェッジウッドがどんどん男前に格好良くなっていき、多様性に富んだ価値観を身に付けいく。まさかそのプロットはないだろうと思っていた方向に話が盛り上がっていく後半は意外でしたが、それが驚きの後にはすんなり読者の腹に収まる仕込みが前半、中盤にしてあるのですよね。とても巧いと思いました。

 もちろん、主人公が料理人でその腕を買われて不幸にも拉致されてしまったわけですから、作中には料理や食事の魅力的な表現が満載です。そんな中でも、主人公ウェッジウッドが自分を拉致した女海賊船長マボットに味覚についての講義をする非常に豊かで美しい一節があるので、それを引用して終わりにしたいと思います。少し長いですがお付き合いください。

「教えて」―マボットが身を乗りだす―「あたしにこんな料理を教えるとしたら、最初に身につけなくちゃならない心得はなに?」
体内のワインが、寿命が七日間延びたという興奮と合わさった。「鼻と口を混同してはいけません」わたしは話を始めた。
「そんなこと、しないよ」
チェンバロだと、心地よい音を出すには、複数の鍵盤を調和するように叩かねばならないですね。料理の風味もそうなんですよ」情熱を晒しすぎたと感じ、ここで顔を赤らめた。だが、彼女は笑わなかった。「鼻で感じとれるものは無限ですが、口は六つしか感じられない」
「これはいいね」マボットはにっこりした。「洗練された会話が恋しかった。あんたは嫌みたらしいけれど、息抜きになる。あたしのクルーは気のいい連中だけど、晩餐の話し相手じゃない。さあ、続けて」
「味覚というのは、人生に相似しているんです。塩味は血と涙、勝利と敗北のエキスです。色なら赤。酸味は注目を呼びかけるもの、尻をぴしゃりと叩くもの、留意せよと促すトゲの一刺し。色ならコマドリの翼の下にちらりと見える黄」
「あんたは哲学者でもあるんだね!」
ふたりともワインを飲んだ。ウサギはこの場を離れてから、またもどってきた。見えないドアを通れるみたいに、暗闇から明るいこちらへ駆け足で行ったりきたりする能力を持っているようだ。「続けて、いまのでふたつ」
「甘味は歓迎してくれる手、母乳、温かいベッドです。色なら夕暮れのオレンジ。苦味は厳しい言葉の裏にある愛、得がたい不屈の精神です。色なら緑。渋味は強い風。引き締め、清浄、自立をもたらします。冷たい水の青だ」
この考えかたは長年にわたってわたしのなかで醸造されたものだが、誰にも話したことがなかった。ワインはわたしが慣れ親しんだものより強かった。
彼女は目を閉じ、頭がつくまで椅子にもたれた。
「〈天国の門〉が最後の風味です」わたしは言った。「めったに話題にはなりません。軟口蓋の暗い斜面に息吹いているもの。ごく特別なブイヨンでのみ発見できるのです。神がアダムに命を吹きこまれた後に居座った味。土塊を生き生きと動かす風味。紫です」(P.120-122)