ろぐの垂れ流し

LOVE定額の相手に着信拒否されたことあるか?!

映画『聖地には蜘蛛が巣を張る(英題:Holy Spider)』アリ・アッバシ監督

 ボーダー 二つの世界』の北欧ミステリの鬼才アリ・アッバシが手がけたイスラム世界のサスペンススリラー『聖地には蜘蛛が巣を張る(英題:Holy Spider)』を千葉劇場で鑑賞してきました。

 

 うわ・・・なんかとんでもない映画を観ちゃった・・・。映画の質は最高、素晴らしい作品。だけど投げられたメッセージを真正面から受けに行くと大怪我必至。鑑賞後の気分は『ミスト』並みの胸糞悪さ(わたしは『ミスト』の皮肉はとても好きです)。いや、本作のラストのあの挑発的な仕掛けは『ミスト』より悪辣だし『ジョーカー』のようなカタルシスは贅沢品だと言わんばかりです。めちゃくちゃ面白い(と表現するのが憚れるけども)、おすすめの映画ですよ。ただしアレックス・ガーランド監督『MEN』のような「悪しき連鎖を断ち切った女性の表情に浮かぶ安堵」のような映画的ご褒美は与えられませんし、『プロミシング・ヤング・ウーマン』のような痛快な復讐が成就することもありません。

 内容を端的にまとめれば、イランの聖地マシュハドを舞台に、宗教的倫理観を笠に着て本人の猟奇的な欲望や制御できない怒りをミソジニーに転化してしまった家族持ちの中年男性が地元の娼婦を狙うシリアルキラー化してしまう。いろいろ訳ありで動きの悪い警察に痺れを切らした、これまたいろいろ訳ありの女性新聞記者が現地取材に乗り込んで来て・・・というものです。

 

 久しぶりにオープニングで「この数分でチケット代の元とった!」と拍手してヒャッハーしちゃいたくなる極上ロングショットを頂きました。極東島国の人間にはなかなか馴染みのないイランの街並みを『ブラックレイン』かのようなバキバキのサイバーパンク風味で空撮してみせて鑑賞者の現実感を一発で断ち切ってしまう。

 

 そしてすぐに、騒々しくて埃っぽく街灯もあまり無いようなストリートでの惨劇をカメラが追うのですが、そこは割と前近代的な伝統的建築が溢れていることに気づいて軽く脳を揺さぶられます。実に上手い。カメラアングルの高低差で鑑賞者をストンと舞台に放り込む。

 

 そこにきて抜群の演技を観せるザーラ・アミール・エブラヒミ演じる女性新聞記者が舞台となる聖地マシュハドにやって来てメインプロットが走り出すのですが、そこからの感想を書くのはすごく難しいです。理由はネタバレを避けたいがためというものでもありません。



 なぜかと言えば映画の揺さぶり要素がすごく多いのです。鑑賞者がある一点にフォーカスしだすと、それが見えているかのように別の仕掛けをじわりと忍ばせてくる。ゆっくりと染み出してくるように、だけど次から次へと仕掛けを繰り出してくる。

 

 それがミステリ的伏線であったり、シーソーゲーム的シナリオの跳躍であったりしないのがこの映画の凄まじいところです。鑑賞者に解釈の幅を預けるようなゆるやかなものではなく、観るものの内面に図ったかのように気持ちの悪い葛藤を生じさせるのです。

 劇中に進行形で描かれる殺人行為の背景を、狂信的信仰やイランという国の社会情勢や歴史・文化によるものと安易に線引きを「絶対にさせない」。犯人やその家族のセリフや主張を揺らがせ、首尾一貫させないことで、宗教観や倫理観で建て付けられる尺度での殺人行為への是非判断を難しくする。ボーダーの漂白を成し遂げていると言ってもいいでしょう。

 二項対立ではない、善悪がグラデーションとして足元にのっぺりと塗りつけられた荒地を歩むような居心地の悪さ。

 特に私が印象深かったのは犯人役中年男性サイードの描き方です。イラン・イラク戦争に従軍した経験がPTSDその他の精神失調の引き金になっているという直接的な説明はありませんが、それでも戦後イランにおいて空虚感に苛まれていることは伝わってきます。が、そこに全く同情を挟ませないし、彼の悲哀や苦しみを掘り下げようともしない。いたって自己中心的で空虚で間抜けな人物として描かれています。憎むべき犯罪者としてピカレスクロマンなどこれっぽちも与えられない。私にはただただ、近くにいたら人殺しじゃなくても絶対に生理的に受け付けないキモいおっさんにしか見えませんでした。

 

 連続殺人を描く映画の中心にぽっかりと空いた空虚な犯人像。アッラーから与えられた使命に従い娼婦を殺す?

 

 いや、ぜんぜん意味わかんないっす。

 

 と、ここまで来て、これはリー・ワネル監督『透明人間』と似た文法を用いているのではないかと思いました。リー・ワネルは『透明人間』という素材を使って、直接的に「悪者を透明に」しちゃったのです。悪役の金持ち科学者に関する作中での人物描写はほぼ皆無。全くその人間像に肉付けがされない。鑑賞時にその狙いを私なりに解釈できた時に、軽く戦慄しました。

 殺人を含む加害行為を繰り返す人間の動機や心象を物語り上透明にすることによって、社会やそこにある人間関係にビルトインされた女性差別や残酷性を「システム」として逆に可視化させることに成功しているのです。

 本作『聖地には蜘蛛が巣を張る』でも、後半に我々の前に立ち上がってくるのは信仰と道徳を練り込んだ「社会システム」としての女性差別です。犯人家族や街の人々も加担する集団的差別思想の表明。『透明人間』では実像無き加害者を糾弾することで主人公女性が周囲から疑いや非難の目を向けられる(悪さをしているのが透明人間だから周囲の人間が加害者を認知できない)という実社会にありがちな二次加害を寓話的に盛り込んでいましたが、『聖地には蜘蛛が巣を張る』ではサイードの「信仰による殺人行為の正当化」にも聖職者兼裁判官がお墨付きを与えることもせず、本人の信念も『シャッターアイランド』的フレイバーでシャッフルされ蒙昧な混乱の中に霧消してしまいます。そして残るのは「社会やそこにある人間関係にビルトインされた女性差別や残酷性』という、西欧社会や極東アジアでも連綿と再生産されてきたシステムとしての加害行為です。

 

 イランだから、イスラム文化圏だから、貧困だから、独裁的政治形態だから、などという一切の線引きを許さず、我々男性の加害性をまるでペルシャ絨毯に包まれた娼婦の死体のようにごろんと足元に転がす、そんな映画でした。

 

 素晴らしい映画です。お勧めします。