ろぐの垂れ流し

LOVE定額の相手に着信拒否されたことあるか?!

逢坂冬馬 著『同志少女よ、敵を撃て』早川書房

 今年の夏休みに岸田総理が本作を読む予定だという報道があってすっかり興が冷めていたのですが、プーチン大統領が予備役の動員を決定しロシア国民が反対のデモをしているというニュースに触れたとき、自分の中のやりきれなさに整理がつかず、積読書棚から引っ張り出して読みました。

 

 内容と全く関係のない話で恐縮ですし完全に私の好みの問題なのですが、雪下まゆ氏(朝倉秋成『六人の嘘つきな大学生』、辻村深月『傲慢と善良』、福田和代『梟の一族』、乾ルカ『コイコワレ』などの表紙を手掛ける)のこのカヴァーデザインは作品の世界観をミスリードしているのではないかなという印象が拭えません。デッサンも狂っていませんか?(主人公セラフィマの顔に比して、軍用ライフルSVT-40が小さい)

 

画像引用元:Amazonモシンナガン ☭ 91/30 SVT-40 PU スナイパー スコープ レンズカバー 実物 

 

  私自身、SNSの口コミが耳に入らず広告や帯の文句や受賞歴だけでしたらこの表紙のイメージのせいで手にとることはなかったと思います。狙いとしては読者層を広げて戦争文学という枠を少しでも取っ払いたいというものがあったのだと想像するのですが、本作と同じくシスターフッドを題材としたバイオレンス・アクションの名作、王谷晶『ババヤガの夜』のカヴァーデザインの成功と比較してしまうのです。

 

 ”がわ”の話が長くなりすぎましたが、この『同志少女よ、敵を撃て』という小説の内容はもちろん素晴らしかったです。文体がペタペタして喉越しが悪くなる部分もいくつかありましたが、そりゃ評判になるなという傑作でした。なにが素晴らしいかというと、独ソ戦の悲惨さを伝える史実ベースの綿密さと反戦メッセージに、きちんと戦争アクションノベルのエンターテイメント性をバランスさせてきたところです。狙撃兵の訓練なんてなかなか国産文学では読めない内容ですよね。戦闘シーンの描写はスピード感重視で盛り上げを優先しつつ、一作を通じて反戦、フェニズム、殺人行為への思索が太い糸として織り込まれています。特筆すべきは狙撃手として卓越しようとするプロフェッショナリズムとその哲学に、殺人行為への陶酔を強く否定する揺り返しのような精神的反作用を必ず書き込んでいるところです。

 

 さらに戦争によって引き起こされる女性への暴力や性加害を重要なテーマとして扱っています。これは特に男性読者がいわゆる「戦争モノ」を読んで痛快さを消費するにあたっては非常に苦い、やりどころに困る不都合な真実であるでしょう。実在した女性だけの狙撃小隊を主役に据えたことで否応なしに、そしてごく自然にその問題を読者に突きつけてきます。

 

 本作中にも少々神格化された雰囲気で登場する将軍ジューコフを扱った優れた評伝であるジェフリー・ロバーツの著作に、ジューコフ本人と赤軍独ソ戦中においてどのような振る舞いをしていたかという一節があるので紹介します。

 

  戦争や占領でドイツ市民を虐待したのは、赤軍兵だけではない。米国、英国、カナダ、フランスの兵隊も例外ではなかった。だが彼らが働いたレイプや略奪は、赤軍兵とは比べものにならないほど少ない。西側の報道が赤軍兵の暴虐を伝え始めると、ソ連当局は西側連合国の「規律の乱れ」を取り上げて反論した。
 ジューコフが犯罪行為を公認したり、大目に見たという証拠はない。言葉だけでなく行動をもって制止しようとした。彼は一九四五年六月三十日、「赤軍の制服を来た者ども」が略奪やレイプを働いているとして、命令がない限り駐屯地を出てはならないと厳命した。兵士が女性と関係しないように、民家に出入りする者を見たら逮捕せよと命じた。部下を制御できない士官は罰するとも警告した。一方で対外的には、赤軍の規律維持は模範的であり、ごく一部の犯罪分子を除けば何ら問題はないとの公式見解を貫いた。このような態度自体が状況の改善を妨げ、占領終了までレイプが横行する一因となった。ジューコフがレイプについてあまり深刻に考えていなかった様子は、こんな発言にもうかがえる。「兵士たちよ、ドイツ娘のスカートの裾に目を奪われて、祖国が諸君をここへ送った理由を忘れるな」。兵士と女性の問題でスターリンは、もっとあけすけだった。一九四五年四月、ユーゴスラビア共産党代表団に語ったせりふがある。「考えてもみたまえ。スターリングラードからベオグラードへと転戦した男がいるとしよう。彼は同志や最愛の人々の死体の山を見ながら、疲弊した祖国を数千キロも踏破した。そんな男がどうして、まともでいられようか? あまたの恐怖をくぐり抜けた男が、女性と楽しんだからといって、なぜ騒ぐ必要があろう」。スターリンには女性に対する性的暴力も「楽しみ」でしかなかった。(p.268)

ジェフリー・ロバーツ著『スターリンの将軍 ジューコフ白水社

 

 このような戦争指導者の論理の一部にはおそらく「相対化」があるのだと想像します。国家の謳う大義のために命を賭して命令を遂行する兵士たちの困難に比して・・・というロジックであらゆる戦争犯罪や暴力や人権侵害を漂白してしまう。そしてまた戦後における市民の戦争解釈においては「物語の取捨選択」が行われる。

 

 この小説のエピローグにはしっかりと文字数をとって次のような記述があります。

 

 彼らにより語られるドイツの「加害」とは、専らユダヤ人に対する大量虐殺であり、国防軍が東欧で働いた虐殺ではなく、ましてソ連女性への暴行でもなかった。
 そしてソ連でもドイツでも、戦時性犯罪の被害者たちは、口をつぐんだ。
 それは女性たちの被った多大な精神的苦痛と、性犯罪の被害者が被害のありようを語ることに嫌悪を覚える、それぞれ社会の要請が合成された結果であった。
 まるで交換条件が成立したかのように、ソ連におけるドイツ国防軍の女性への性暴力と、ソ連軍によるドイツ人への性暴力は、互いが口をつぐみ、互いを責めもしなくなった。
 心地よい英雄的な物語。美しい祖国の物語。
 いたましい悲劇の物語、恐ろしい独裁の物語。
 そしてそれは、独ソのどちらでも、男たちの物語だった。
 物語の中の兵士は、必ず男の姿をしていた。(p.474)

 

 この「物語の相対化」について国際政治学者の藤原帰一は「記憶の選別」という言葉を使い、著書で次にように解説しています。

 

 まず、戦争の語りは、その戦争を戦った国民のなかの犠牲者を中核として構成されることが多く、国民以外の犠牲に目が向けられることは少ない。また、戦争が勝利に終わった場合には犠牲者と並んで兵士の物語もいわば英雄譚として加えられるが、敗戦に終わった場合には兵士は公的な戦争の記憶から脱落してしまう。
 さらに、戦争の「記憶」といっても、それは当事者の私的記憶ではない。その「記憶」とは、より広く多くの人々が共有する「記憶」という形をとった公的な物語である。そこでは、当事者の私的な記憶との間にずれが生じるのはもちろん、公的な物語に含めることの難しい私的経験が物語から外されてしまう。戦争の記憶には多くの経験のなかの一部を取り出し他の部分が切り捨てられるという記憶の選別が避けられないのである。(p.133)
『戦争の条件』藤原帰一 著、集英社新書

 

 かたや娯楽作品である小説、かたや政治学者が語る戦争論にこれほどまで似たメッセージが現れるということに驚きました。本作の参考文献にジェフリー・ロバーツ著『スターリンの将軍 ジューコフ』や大木毅、山崎雅弘はありましたが、藤原帰一はありませんでした。それでもこのように別のカテゴリにある二つの書籍に類似したテクストがあるということは、この「相対化」は人間が歴史を見るにあたり根源的で普遍的な振る舞いであるということでしょう。歴史家のE・H・カーはこう断言しています。

実際、事実というのは決して魚屋の店先にある魚のようなものではありません。(中略)歴史とは解釈のことです。(p.29)

『歴史とは何か』E・H・カー著、岩波新書

 悲惨な戦争を終えて振り返る時に現れる「相対化」という作用は、すなわち戦争に突入する際に使われるロジックそのものであることに恐怖を感じるのです。

 

 

 最後に、徴兵に対して反対デモに踏み切ったロシア国民の報道を見て、やはり「自分があの立場(自身が戦争に行く、家族が戦争に採られる)ならどう振る舞うか」ということを想像せざるを得ず、そんな時に自分が何を行動原理とするだろうかというその寄す処にしたい鶴見俊輔の言葉を紹介して終わりにしたいと思います。

 

私の息子が愛読している『生きることの意味』の著者高史明の息子岡真史が自殺した。
 『生きることの意味』を読んだのは、私の息子が小学校四年生のときで、岡真史(一四歳)の自殺は、その後二年たって彼が小学校六年生くらいのときだったろう。彼は動揺して私のところに来て、
 「おとうさん、自殺をしていいのか?」
とたずねた。私の答は、
 「してもいい。二つのときにだ。戦争にひきだされて敵を殺せと命令された場合、敵を殺したくなかったら、自殺したらいい。君は男だから、女を強姦したくなったら、その前に首をくくって死んだらいい。」(p.151)

鶴見俊輔 著『教育再定義への試み』岩波現代文庫

 

 戦争において、敵兵士に殺される覚悟や誰かを殺す覚悟よりも、自分の信念が死ぬ前に自殺する自由は常にあるということは忘れずに、その覚悟は持っておきたいと考えます。