ろぐの垂れ流し

LOVE定額の相手に着信拒否されたことあるか?!

濱口竜介 監督『ドライブ・マイ・カー』主演:西島秀俊

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 翻訳文体で日常会話を交わす奇妙な登場人物たちが無表情演技で自分や相手の心情を語って聞かせる「魂の再生」ストーリー。


 タイトルにはなっているけれども、ちょっとレオス・カラックスウォン・カーウァイ風味のシーンがあるだけでほぼ意味の無いドライブシーン。チェーホフ作品の台詞なのか、主演の西島秀俊の妻(霧島れいか)の書いた脚本なのか、本人たちの会話なのか、トーンもなにもかもが平板なせいで全く区別がつかないぼんやりとした風景が続きます。わざとでしょうけど何がしたいん、それ?


 かと思うと「人の心はそのまま覗くことはできません!」という前置きから、実生活であんたらにそういう断定的な物言いをされたら本当に不愉快だろうなという心理分析を開陳しだす登場人物たち。なんのスイッチが入ったのかわからんけど、どんだけ練習してきたんだよという長文を朗々と喋りだします。


 わたしはてっきり、劇中舞台の準備で感情を交えない本読みの練習が立ち稽古に進み、いざ本番を迎えるという物語の進行にリンクして、登場人物たちの台詞回しにゆらぎを持たせてくるかと思っていましたが、それもない。ラストまで演出方法に変化無し。


 はぁ?なんじゃそりゃ・・・。

 

 作品中に「言葉の限界」に言及する台詞が有るのできっと作品のテーマにもそれは自動的に装着されるものだと思いました。ところが作品の終盤、劇中劇であるチェーホフ『ワーニャ伯父さん』のクライマックスが結構な時間をとって演じられているのですが、舞台演出のある特色のために私には【字幕】を追わなければ全くメッセージを受け取れないシーンとなっていました。私のコミュニケーションスキルが足りず、チェーホフ作品に関する素養が足りないということが本作を楽しむうえでの準備不足だとしても、映画として大きな矛盾を感じたシーンでした。その居心地の悪さが本作全体に通底しているような気がするのです。テキスト情報に大きく依拠したシーンを作り、そこに山場を持ってくるのであれば、小説原作を謳い、チェーホフの舞台劇を素材として大きく取り上げるこの映画はいったいどこに立ち位置を取りたかったのか。主人公が『テキストとの応答』という台詞を使うのも気になります。


 皮肉を言えば、社交的自閉をハードボイルドの味付けで表現し、記号のようなト書きでやりとりされる心理描写がこの作品の狙いだとしたら、それはとてもよく村上春樹の特徴を踏襲した脚本だとは思いました。「黒い渦」という言葉で安直に長女を亡くした妻の喪失感を台詞で説明し、彼女の脚本執筆につながる言葉を「黒い渦」からすくい上げる、創作の発露となる語りを生み出すその契機が性行為でるということを、主人公が「セックスをすると・・・」と何度も繰り返し説明しだすとき、その単語の繰り返しの分だけその場にいない妻の「黒い渦」とやらが漂白され、小さくなっていくのを感じました。フォン・トリアー『アンチクライスト』、クローネンバーグ『クラッシュ』のような病的な表現方法を採れとは言いませんが、この作品の演出方法は映画としてやるべきことだとは私には思えないのです。

 

 ただ、よく考えてみると同じ濱口監督の『寝ても覚めても 』もセリフ回しが気持ち悪すぎて途中で観るのをやめています。


 好みの問題でしょうね。

 

 喪失と再生というテーマでは、『雨の日は会えない、晴れた日は君を想う』が好き過ぎて辛口になってしまっているというのも否定できません。