ろぐの垂れ流し

LOVE定額の相手に着信拒否されたことあるか?!

『神は銃弾』ボストン・テラン著(田口俊樹 訳)、文春文庫

【あらすじ(背表紙より)】
憤怒――それを糧に、ボブは追う。別れた妻を惨殺し、娘を連れ去った残虐なカルト集団を。やつらが生み出した地獄から生還した女を友に、憎悪と銃弾を手に…。鮮烈 にして苛烈な文体が描き出す銃撃と復讐の宴。神なき荒野で正義を追い求めるふたつの魂の疾走。発表と同時に作家・評論家の絶賛 を受けた、CWA新人賞受賞作。

 『音もなく少女は』で大ファンになったボストン・テランのデビュー長編です。”暴力の詩人”と呼ばれる謎多き著者によるカルト集団を題材にしたバイオレンス・ミステリー。山上容疑者が安倍元総理を銃撃した事件をきっかけに、そういえばカルト題材の小説を持っていたなと思い出して、積んでいた本棚から引っ張り出して読みました。

 全編カリフォルニアの砂漠を舞台にしていてその描写が第一の鑑賞ポイントだと思います。映画『ファーナス』や『MUD』などでも描かれているような貧しい田舎のアメリカです。決して行儀の良くない合衆国市民=犯罪者達の活き活きとした蠢き。そして犠牲者家族でもある主人公の一人ボブ・ハイタワー保安官の鬱屈と、職業人そして父親としての奮起が第二の鑑賞ポイントでしょう。前半に「おそらく彼が主人公なのだろう」と読者に示され舞台に引っ張り出されながらもどうにも情けないグズグズな性格付けで描かれる伏線が本当に良く出来ています。保安官の上司と反目してまで自主捜査に乗り出したものの腰の引けたところのある主人公ボブの心理描写はその後の相棒ケイスとの問答に説得力を持たせる大事な設定でした。さらに彼がカソリック白人男性であることで相棒ケイスに対して無自覚に差別的な言動をとっていることを描写することもこの作品では非常に重要な要素であります。

 そして私が思うに本作の最大の鑑賞ポイントはヒロインであるケイスのキャラクターです。保安官ボブのバディ役をつとめるのは薬物依存のリハビリ施設から出てきた「脱会者」の女性です。なんと彼女はボブの元妻を殺し、娘を誘拐したカルト集団にもともと属していた女性なのです。保安官と元薬物常習者のカルト脱会者がバディを組む!導入部ではずいぶんと危なっかしい不安定さで描かれるケイスですが、ボブの娘を探す旅に出てからは徐々にそのタフさと魅力を読者に見せつけ始めます。

 耐久性に加味されるリヴォルヴァーの美しさは、扱いの簡単さにある。彼女はシリンダーを回転させる。引き金も撃鉄もスムーズに動いているのがボブのところからもわかる。
 が、何よりボブの眼にとまったのは彼女の手と指だ。リヴォルヴァーの美しささえ色褪せそうなほど、銃に触れる彼女の手つきは優雅で見事だ。顔にも緊張はうかがえない。筋肉も張りつめていない。まるで禅道場から出てきたばかりの人のように落ち着き払っている。
(中略)
 彼女の動きにはある種の生々しさがある。手と武器の機械的な動きがいつのまにか詩的な舞踏のように見えてくる。太陽に照らされ、彼女は汗をかいている。腋の下に汗をかいている。彼女の汗に銃までいつしか濡れているかのように見えはじめる。ボブには何もかも免疫のないことだ。”立入禁止”と書かれたドアが一瞬開き、またすぐ閉じるまえにその中の何かを見て、何かを感じたような......そんな気がする。(P.152)

 中略した部分には銃のギミックに関する緻密な描写があって、それはそれで大変魅力的な部分ではあるのですが、私はここの過剰に蠱惑的であったり性的イメージに引き寄せ過ぎないケイスの描写が大好きです。ボブと、そして作者の「節度」が感じられるのです。その「節度」は作品を通してボブとケイスの関係性に一本筋を通しています。ドラックとレイプと暴力に溢れたこの作品で、主人公たちが主人公たり得るのは正義感や義侠心ではなく、この節度にあるのではないかとさえ感じます。敵役であるカルトのボス、サイラスの狂気や、ボブとケイスの協力者でもある彫師のぶっ飛びキャラもそれぞれがとても魅力的であるので、その線引きとして倫理観や規範意識ではなく「節度」・・・いや、お互いに対する敬意と言ったほうがよいかもしれませんが、言外にほのめかされるそういった美徳を採用しているのでしょう。それをもってしてようやく読者はボブとケイスに感情移入できます。それだけこの作品の世界は苛烈で暴力的です。主人公のボブでさえ差別意識や猜疑心にゆらゆらと思考を揺さぶられ決して善人には見えない瞬間もある。ケイスにいたっては来し方があまりにも犯罪的で素直にヒロイン的な行動原理が飲み込めない。そのどちらも作者の計算づくの造形であるのですが。

 徹底的に荒廃した情景、容赦ない暴力の中に突然差し込まれる静謐で怜悧な思索。私はこれがボストン・テランの作風の一番の魅力だと考えています。そしてケイスは「脱会」の過程で、薬物依存からの回復の過程で、書物を味方にできたために作者の問いかけの代弁者たり得る知性を備えました。

正しくあること、それは悲しみ以外の何物でもない。そして、悲しみそのものがもはや彼女には邪悪なものになっている。だから、意識しないことだ。ただやってみることだ。それこそわれわれが人生と呼ぶ暗い創造物のすべてではないか。死をもって正せない正しさなどありはしない。(P.150)

 ケイスは、ピエール・ルメートル 『その女アレックス』のアレックスに並ぶくらい、私の大好きなキャラクターになりました。

 

 

 最後に蛇足にはなりますが、作者も意図せずして日本のニュースや世相をえぐる一節がありますので、そちらを紹介して終わりにします。

「狂ってることにまちがいはないけど、彼にも動機はある。だからあたしは思うんだよ、彼があの家にはいったのには何かわけがあるって。何もなくてあんたの......その、子供をわざわざ連れてったりはしないはずだって。彼は精神異常者じゃない。そんなふうに見ると、まちがっちゃう。彼の宗教は、すべての宗教がそうであるように、とても政治的なものさ」
「政治的?」
「あたしが欲しいもの対あんたが欲しいものという政治の力学」
(P.210)

 

 

映画『クリーン ある殺し屋の献身(原題:CLEAN)』

映画『クリーン ある殺し屋の献身(原題:CLEAN)』
監督:ポール・ソレット  出演:エイドリアン・ブロディ

 良かった! ハヤカワ・ポケットミステリの味わい爆発のノワール調バイオレンス作品。現実世界の端々にある暴力のトリガーと主人公クリーン(エイドリアン・ブロディ)の殺人行為らしき記憶のフラッシュバックを見せながら、彼のトラウマの謎解きは焦らしに焦らす。街を仕切る親分の、世間知らずのボンボン息子が出所するあたりから一気にキナ臭くなるかと思えば脚本が跳ねるのはそれからずっと後。

 この長過ぎるスローテンポな前半部分がこの作品の賛否を分けるような気がします。

 わたしと言えば・・・最高に楽しめました。とにかく終始泣き顔のエイドリアン・ブロディの演技が好きで好きで、カットも表情の大写しが多いものだからもう悶絶するくらい楽しんでいました。彼を初めて認識したのは『シン・レッド・ライン』でしょうか。好きになったのは『ダージリン急行』です。『戦場のピアニスト』は観ていません。本作では回想シーンでしか笑顔を見せない、本当に痛々しい抜け殻キャラを絶品の演技で魅せてくれました。またいいカラダしてんのよ。



 ストーリーは子育てに失敗した犯罪者同士が父親としての格付けを殺し合いでカタをつけるというものです(乱暴)。

 作品の評価を損なうものではありませんが、私はエイドリアン・ブロディ演じる主人公がその職業と薬物常習と子育てを両立させようとしていた過去にそもそもの欺瞞性があると批判的な目でみました。だからこそ彼の『戦うことで折り合いを付ける』というセリフはわたしの心に響いてきたのだと思います。良い脚本でした。

 映画の作風も『ブルータル・ジャスティス』を想起させるグレン・フレシュラーのお下品食いもんシーンだったり、『キャッシュ・トラック』を反転させたような子ども起点の脚本だったり、『Mr.ノーバディ』『ライリー・ノース』を彷彿させる前準備シーンだったり、目配せ匂わせが盛りだくさんでサービス精神旺盛だと思います。アクションシーンは隘路の上からショットが大好きな『オールド・ボーイ』を明らかに意識していると思われて、ノリノリで楽しめました。



 『モンタナの目撃者』を観たときにも思ったことなのですけども、やっぱり、この一定の品質の娯楽作品を供給してくるアメリカ映画界って凄いと思うのです。

 

「あー、面白かった」

 

 映画の帰り道、それだけで幸せになれますもの。

押井守 監督『機動警察パトレイバー2 the Movie』

押井守 監督『機動警察パトレイバー2 the Movie

 

監督 押井守、原作 ヘッドギア、脚本 伊藤和典

声の出演               後藤喜一              大林隆之介

        南雲しのぶ           榊原良子

        泉野明                  冨永みーな

        篠原遊馬              古川登志夫

        荒川茂樹              竹中直人

        柘植行人              根津甚八

 もう20年ぶりくらいに観直したのですけど最高のポリティカルスリラーですね。面白い! 押井守監督のナンバー1は『スカイ・クロラ』だったのですが、今回の鑑賞でこっちが1位に入れ替わったかもしれません。

 テロリスト柘植(つげ)の声は根津甚八で、自衛隊のキーマン荒川の声は竹中直人という中高生(リアルタイム当時の私にも)にはまったく響かないなんとも贅沢な出演陣。

 資本で買われる欺瞞的平和、一部先進国の安寧のために犠牲を強いられる周辺国の不可視化、役人の保身や政府の日和見主義、それらを批判する難解な会話劇を飲み込めない方にはぜんぜん面白くともなんともないであろう、ほとんどアクションシーンのないSFロボットアニメです。クライマックスのカタルシスで言えばサイバー犯罪をテーマにした1作目に軍配が上がるかもしれませんが、私にはとにかく南雲隊長(画像の女性)の切ないロマンス(三角関係とまで拡大解釈してもよいかもしれません)や職業倫理と義憤と情念の間で葛藤する大人の女性の気持ちのゆらぎを見事に描いている本作が魅力的でたまりません。本当に南雲隊長に惚れてしまいました。それに、顔は見えないのですが、南雲隊長の母親の着物姿の背中の演出、あれには思い出し泣きしそうになります。

 シリーズの主要キャラクターである泉野明や篠原遊馬以下旧特車2課メンバーの登場シーンが驚くほどの勇気でばっさりと間引かれているのですが、それでも際立ったシーンをそれぞれ割り当てられて存在感を発揮しています。私はおやっさんこと榊清太郎が自宅前に集まった旧特車2課のメンバーに激を飛ばすシーンが好きで好きでたまりません。その前の後藤隊長の間延びしたセリフが本当に良く生きています。

 そして本来の主役である泉野明が「わたし、レイバー好きの女の子で終わりたくないの」と遊馬に告げる短いシーケンスは、自身の憧憬や警察官に求められる正義、つまりプロフェッショナリズムさえも超えてもっと人間味のある連帯のために行動する覚悟を見せる卓越したシーンだったと思います。あの短いシーンで南雲隊長の行動原理や後藤隊長の生き様を間接的に補強している重層的な演出には思わず声が出ました。

 褒めてばかりですが、難点を言えば、高温多湿の環境(石像のシーンからカンボジアと推察される)で機械化部隊を運用したいという思いでPKOにレイバー隊として参加した柘植は交戦許可がおりずにそこで部隊を全滅させてしまうのですが、自衛隊の作戦行動の前提をいやほどわかっているはずの柘植がそれをテロの動機とするストーリーは、手に入れたおもちゃで遊びたいガキが怪我したような印象で軽薄な印象を受けるという点です。映画『ピースメーカー』のテロリストもただの私憤ですが、もう少し納得感があったような。

 とは言え、脚本の伊藤和典(『空母いぶき』『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』)は緻密で隙きのない、かつ情緒的で時代性を超越する素晴らしい世界観を見せてくれました。

 

 凄い映画です。大好きです。

 

新井由己 著『とことんおでん紀行』凱風社

 おでんのタネの「餃子巻き」 なにそれ!!??

 みなさん食べたことあります? 私は九州生まれ、学生時代と新卒の一時期は関西で過ごし、現在は関東在住で酒場と飯屋をこよなく愛する中年おっさんですが、「餃子巻き」は見たことも食べたこともありません。

 

(写真は静岡駅ちかくの「おにぎりのまるしま」です。コロナの影響で閉店してしまいました。本当に悲しい・・・)

 この本は原付きバイクに乗っておでんを食べながら日本を横断する紀行文的な研究書なのですけど、出汁おでんと味噌おでんの境界や、天ぷらとさつま揚げの境界をリアルに体験して記述しているのでとても貴重な資料だと思います。ツーリングドキュメンタリーとしても楽しめる非常に面白い本でした。
 黒潮に乗って和歌山からたくさんの移住者が千葉(房総半島)にコミュニティを作ったから白浜とか勝浦とかの同じ地名があるとか、漁師町と名物練り物の相関とか、いろいろ勉強になりました。

 

 ついでにおでんの由来についてのスライドを作ったのでご参考までにシェアします。

沢木 耕太郎 著『テロルの決算』(文春文庫)

 2022年7月8日の安倍晋三元首相の銃撃殺害事件の報を受けて私がまず感じたのが、山上徹也容疑者の動機、背後関係その他の真相究明は捜査を待つとしてこの重大な事件を自分の腹にどう収めればいいのかという混乱でした。自分には現役国会議員が衆目の中で銃撃され死に至るという事件を捉えるフレームが無いことに改めて驚き、慌てたのです。2002年10月25日に民主党衆議院議員であった石井紘基が刺殺されたとき、私は会社員になりたてで仕事のプレッシャーと長時間労働、おまけに社会への無関心というコンボでそのニュースについて全くと言っていいほど記憶がありません(刺殺事件から20年近く経ってから、その著書『日本が自滅する日』を読みました。素晴らしい、重要な書籍です。)。
 そこで、日本近現代史における要人暗殺の周辺にある雰囲気というか時代性のようなものを感じるためにもともと手元に(積んで)あった黒川創『暗殺者たち』(新潮社)、デイヴィッド・ピース『TOKYO REDUX』(文藝春秋)、月村了衛『東京輪舞』(小学館)、事件をきっかけに取り寄せた中島岳志血盟団事件』(文藝春秋)のどれかを読もうと考えていました。しかし最終的にはSNSでやりとりをしている友人の勧めで『テロルの決算』を読むことに決めたのです。

 1960年10月12日に日比谷公会堂で開催された三党首立会演説会の演壇で浅沼稲次郎社会党委員長(61歳)が右翼の少年山口二矢(おとや、17歳)に短刀で刺殺されるという事件が起きました。この本は、その事件でまさに交錯することになった二人の人間のそこまでの人生と、事件後の山口二矢の調書をもとに書かれたノンフィクションです。1978年に初版発行ですから沢木耕太郎が31歳のときです。あとがきによると彼が20代の7年間で執筆したということです。若くして才能を発揮する文学者というのはなんとなく理解できるのですが、ことノンフィクションという分野において20代でこのような業績を打ち立てる書き手は寡聞ながら他に知りません。凄い書き手だと思います。そして1979年第10回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した本作はノンフィクションの金字塔として有名ですが評判通りの凄みをもった傑作でした。淡々とした冷徹な筆致でありながら臨場感が極まっていて、まるで高村薫の小説『照柿』を読んでいるときに感じた主人公が凶行に及ぶまでの情念の高まりを追体験しているようなあの読書感とそっくりでした。

 本作を通じて一番印象が強かったのは1960年(昭和35年)頃の日本人のエネルギーの強さです。良く言えば活力に溢れ行動的、悪く言えば野蛮で暴力的な日本人。労働争議も気合が入っていますし、安保の反対運動で警察と学生が衝突して東大生に死亡者が出ています。本作の片方の主人公である浅沼稲次郎は政治デモで警察に逮捕され、警察からひどい拷問を受けています。敗戦から15年後、2022年現在に80歳の方が18歳だった頃の日本。私は敗戦の41年後に生まれた人間ですが、よど号ハイジャック事件あさま山荘事件の振り返りの報道で、暴力の残滓のようなきな臭さを感じるのがせいぜいの幼少期でした。ですから本作を読んで、政治デモのたびに車両をひっくりかえしたり、ゲバ棒もって相手方に突っ込んでいったりで何度も警察のお世話になるなんて世相やその熱量には想像が及ばないところがあるのです。

 では、国政政党の党首を刺殺するという凶行に及んだ山口二矢という少年はやはりギラギラした武闘派だったのかというと全くそんな人間ではなかったというのです。

 杉本は二矢と起居を共にしてあらためて驚かされていた。それは、このような少年が戦後教育の中からでも生まれうるのだ、という驚きであった。礼儀、言葉遣い、挙措、服装、そのどれをとっても折り目正しいものだった。それは二矢と同年代の少年と比べた時、並みはずれていた。(p.205)

 私もこのノンフィクションを読んでいて、山口二矢に野卑なところや粗暴なところが感じられないのが驚きでした。もちろん右翼活動の際には先輩からたしなめられるほどイケイケだった彼ですが、それはどうも活動における使命感や真摯さの彼なりの表現であったように思われるのです。ただ、感受性が人よりも強く、思考が鋭利であったのは間違いないでしょう。比較的リベラルな教育方針だとみうけられる父親にさえ抑圧を感じ、兄にもライバル心よりももっと暗い、畏怖のようなものを感じていた様子が書かれています。そういった素地をもつ山口二矢が右翼活動に傾倒していく端緒を書いたものに強く心に残った箇所がありますので少し長いですが引用します。

 二矢は玉川学園でも養鶏部に入り、黙々と動物の世話をすることを好んだ。休み時間にはよく鶏の世話をしている二矢の姿が見られた。
 だが、二矢が玉川学園にも違和感を覚えざるをえなかった最大の理由は、やはり彼の右翼的言動に対する周囲の視線であった。それはかなり冷たいものだった。学校での二矢のあだ名は「右翼野郎」というのであった。
 ふだんはおとなしく目立たない二矢が、政治的な話になると一歩も退かなかった。友人に対して、というばかりではなかった。むしろ教師に対して、より強硬だった。それは、あまり親しくなかった同級生のひとり石川勲にとっても「一本筋が通っている」と思えるほど、論理的なものだった。
 しかし、教師たちにとっては、小生意気な右翼野郎にすぎなかった。とりわけ担任の若い教師は二矢に好意を持っていなかった。事件後、その若い教師は新聞記者に、「山口の父親は赤尾氏の大のひいきで、母親はいまでも軍歌のレコードを聞きながらゾウキンがけをするような特殊な家庭環境のようで、いわば親たちのこういう態度にも責任があったと思う。また山口は在学中に失恋をし、その劣等感も右翼に走らせる機会を早めたのではないか」。
 と述べた。ここには事実の誤認もあるが、それ以上に、彼の右翼野郎への嫌悪感が際立っている。 そのような冷笑と嫌悪の視線に対し、二矢はさらに頑なになり、昂然と右翼野郎たることを示すようになる。「再軍備賛成論」をぶち、「警職法改定擁護論」を展開した。
 左翼的な思考に慣れた教師たちは、彼の問いかけを常に強圧的に批判するか、あるいは無視するだけだった。少なくとも二矢にはそう受け取れた。この日本において、今や左翼は圧倒的強者であり、だからこそ、その強者と闘わなくてはならないという信念は、 左翼的な教師が自分にとって横暴な強者であるという実感によっても強固なものになっていった。(p.64)

・・・疎外感、冷笑、嫌悪の眼差し、一方的に決めつけられた「劣等感」というスティグマ、強者に強いられた無理ゲーを戦う絶望感。
 付箋を貼ってある部分を読み返してこの箇所に目を通したときに、私は脳の奥の温度が下がったような感じがしました。はたしてこの事件は左翼に対する暴力的抗議と単純化してよいのか、山口二矢はただの政治犯なのか、その疑問が山口二矢の動機の現代性を強く意識させるのです。
 疎外感、冷笑、嫌悪の眼差し、一方的に決めつけられた「劣等感」というスティグマ、強者に強いられた無理ゲーを戦う絶望感、という要素は1960年(昭和35年)における特殊な現象では決してありませんし、支配的な左翼勢力に抵抗する右翼という政治状況からのみ引き起こされるものでもありません。

 少し話が逸れますが、名経営者として語られることの多いジャック・ウエルチ元GE社長には"Neutron Jack(ニュートロン・ジャック)"というあだ名がありました。ジャック・ウエルチの断行するリストラ施策で「会社の建物は残っているが、従業員だけが消える」様子が「まるで中性子爆弾が爆発したようだ」から付けられたあだ名です。氏には不名誉なことかもしれませんが、私はこの中性子爆弾という比喩を聞く時、現代日本の「隠蔽された暴力による内戦」を思い出します。自殺率はG7でトップ、自殺する世代でみると若者が3分の1を占める国。生活保護の捕捉率は1.6%で費用の対GDP比はOECD平均の4分の1の水準。日本の貧困率OECD加盟30カ国中ワースト4。治安は良い国です。犯罪は減少傾向です。ですがこの国のシステムは搾取するリソースが枯れてしまってもなお人間そのものをすり潰して自己再生産を図っているようなのです。足元ではそのシステムのガタが隠しきれず存亡の危機に瀕しているようですが、そのせいでなお一層搾取の暴力性を強めているように見えます。あたかも人間性や死がシステムの温存のために漂白されていっているようなのです。

 私はこれを「隠蔽された暴力による内戦」だと呼んでいます。

 バブル崩壊以降、新生児が育って自分の子供を設けるくらいの時間軸で日本人は無理ゲーを戦ってきました。ゲームそのものも「たけしの挑戦状」が途中で「星をみるひと」に変わってクソ度が増した過酷な無理ゲーです。統治者にとって幸運だったのは、もう我々日本人にはゲバ棒を振り回したり道端の自動車をひっくり返したりして体制に抗議する気合と根性は備わっていないことでしょう。だけども、あまりにも過酷な無理ゲーのリセットボタンをバックアップも取らずに押したくなる人間を生み出す母集団は、想像もできないくらい巨大になってしまっているのです。

 二矢が欲していたのは、「どちらが正しいか」自由に判断させてくれるような人物ではなかった。暗い苛立ちの流出口を見つけ、鋭い反撥心に的確な方向性を与えてくれる人物こそ、必要だった。(p.67)

 政策や雇用形態やテクノロジーで人間的なネットワークをずたずたにされた我々は、「無理ゲーのやめ方」のオプションが豊富ではありません。アドバイスを聞ける人も、望ましくない行いを止める人も、いない人間が多いから。さらに残念ながら我々日本人は受けてきた教育の作用で「オルタナティブを内包する」ことも「規範を内面化する」ことも苦手です。だから日本人は、人間的なネットワークの中で保持されないと暴走しやすい、個としての拭いきれない脆弱性を持っていると感じています。
 
 ならば、痛ましい事件事故を招くような暴発を防ぐために、我々は歯を食いしばって怒りを押さえつけなければならないのでしょうか。自分たちのパラダイムを劇的に書き換えなければならないのでしょうか。今から友人知人を増やし、疎遠の親類に年賀はがきを送れと? 無理ゲーを戦い続けて消耗しきった我々に「成果が出ないのであればもっと頑張れ」というようなラットレース的アプローチは酷というものです。ですから私はみなさんに「熱く戦うためにユルく振る舞う」という明るく健全なアナーキズムを提案したいのです。まず手始めに戦略的サボタージュはどうでしょうか。自分の生活や収入に影響が出ない範囲であらゆることをサボるのです。そこで自分の生活や心に「空間」を作りましょう。空間ができれば連帯をする余裕も、困難を笑いに昇華する余裕も、真に人間的な対話をする余裕も生まれてくるでしょう。

 最後に、第2次世界大戦中のイギリス人がとった戦い方(逃げ方)を紹介する私が大好きな一節を引用して終わりたいと思います。

 イギリス人がナチズムに対して頑強に戦ったのは、寛容な社会を保存するためであって、したがって、戦争中につくられた戦意高揚映画の多くは、ナチス国家との対比で英国における自由を非常に強調しております。それゆえ多くの映画で、ドイツ人は非常に規律正しく、イギリ ス人はむしろだらけたようにえがかれております。BBCで放映されたコルディッツ捕虜収容所からの脱走物語でも、捕虜になったイギリス軍人は監視しているドイツ軍人に比べて「気合い」が入っていないようにえがかれていますが、捕虜たちが工夫をこらし、危険を冒して次々と脱走して行く物語は、イギリス人のもっとも誇らしい戦争中の思い出の一つであります。(p.23) 森嶋通夫 著『イギリスと日本』(岩波新書

 

映画『ボイリング・ポイント/沸騰』

映画『ボイリング・ポイント/沸騰』
監督:フィリップ・バランティーニ 
主演:スティーヴン・グレアム

 編集、CG無しの90分ワンショット。ガチでノーカット長回しでもって映画を一本撮っています。こういうのこそ劇場で観る値打ちありの大好物。もともとは1日2回の撮影を4日間実施する予定だったのが新型コロナの感染拡大で行政指導が入り半分の2日の日程しか撮影が出来ず、4回の撮影のうち3回目が公開用に採用されたとのこと。

 私、厨房のゴタゴタを観るのが大好きなんです。そういった意味で過去最高傑作は『ディナー・ラッシュ』でした。腕はいいけど博打狂いのスーシェフ・ダンカンのハチャメチャな仕事っぷりは普通はクビになってるよね~なんて思いながらホールスタッフがデシャップに向かって自分の担当テーブルの料理を督促するヒリヒリ感がたまらない作品でした。
 若干エンターテイメント寄りの味付けが強いですがブラッドリー・クーパー主演の『二ツ星の料理人』も、料理人の長時間労働や少々の狂気を孕んだプロフェッショナリズムが良く描かれていました。まな板にナイフの腹を押し付けて粘りを確認するシーンや、厨房スタッフの掃除の様子を本編に関係なくきちんと織り込んでくるところが料理への愛があって良い。
 で、本作なのですが、いやぁこれこそ愛だよ、愛。レストラン業界の現場への愛。しびれましたね。作風で言えば実は社会派の作品です。実際にレストランでの勤務経験の長い監督がリアルタイムに人気レストラン(実在する人気店を借用して撮影している)を舞台に労働問題や人種差別や移民問題や格差問題やカスタマーハラスメントやLGBTQ+への無理解やらをさまざまに投げかける。ですので「美味しい一皿が魔法のように生み出される厨房の活気にうっとり」的な味わいの映画ではありません。

 家庭は破綻してアルコールと薬物に依存しているオーナーシェフ(共同経営者有り)のアンディ・ジョーンズを演じるのはスティーヴン・グレアム。『スナッチ』でステイサムの舎弟をやっていたのがとても印象深かった彼も大御所の風格です。そんな彼が経営するのはロンドンのダウンタウンにある人気高級レストラン。クリスマス前の金曜日で予約がいっぱい。それなのにシェフのアンディは前日の発注はサボっているし店には遅刻するし、息子の行事は忘れてすっぽ抜かすし・・・だめな大人の典型みたいな描かれ方で人物紹介をされる導入で物語はスタートします。 遅刻して店に向かい速歩きするアンディを横から捉えるショットでスタートするのですが、そこからの90分、撮影監督マシュー・ルイスの体に装着されたジンバルとカメラが舞台となるレストランの厨房やホールに時にはバックヤードや裏路地を駆け回り、「沸騰」寸前のひりひりする人間模様を追いかけます。サイドストーリーで2本ほど破綻から立ち直る予兆を見せる脚本はありますが、ほとんどが「沸騰」して終わります。いや、それでいいんだと思います。

 尋常じゃないストレスとプレッシャーに晒されているのは、ショービジネス界の住人でも、特殊部隊の兵士でも、とんでもない金額を扱うトレーダーでもない、われわれ市井の人間にも特に親しみのある「食いもん屋で働く人々」です。ここに監督の本作に込めた「社会問題」を普遍化する仕掛けがピリッと効いていると思うのです。まずですね、サービスやモノに対価を払っているからといって人に対して横柄にふるまっていいと勘違いしている人間の比率や深刻度合いっていうのがその社会の成熟度というか「余裕度」を表すと思うのですよね。作中にも明示的、暗示的にカスタマーハラスメントが出てきます。明らかな人種差別からマイルドなマウンティングまで。それが日本ではなく英国でも同じく存在する構造的な社会問題だということに暗澹たる気分になりました。だからこそ、カメラが縦横無尽に駆け回るレストランの中で、それは私が大好きな料理とお酒とテーブルと調理機器の世界であるにせよ、同時進行的に起こっている問題だらけのアンサンブルドラマを「もっと楽しい脚本でエキサイティングに撮ればいいのに」と思った自己欺瞞に自覚的にならねばならないと思いました。そういう作品が他にあってもいい。だけどこの作品は「消費される舞台装置」としてのレストランではなく、それぞれ生活や家族や目標やストレスやプレッシャーや鬱屈を抱えた人間たちが働く「問題ある職場」たるレストランだからです。この映画にエンターテイメントを求めるとき、自分は間接的にレストラン業態に加害している。

 もともとがそういう問題意識で撮られたワンショットノーカット短編の作品を長編に拡張した作品なので、突飛な撮影スタイルに振り回される独りよがりなあざとさが無いのが素晴らしいです。緊張感あふれる店内に次から次への飛び込んでくるトラブルに徐々に従業員たちの精神が沸点に近づいていく切迫感や作品のテンションを維持するのにノーカット撮影は適しているし必然の選択だという納得感を強く感じます。実際には、鑑賞中にはその撮影方法の特殊さを意識することはほとんどなく、没入感が先行します。人物配置と店の構造とカメラの導線を綿密に計算した脚本を「店ありき」で作り上げてるから出来た稀有な90分と言えるでしょう。カット、編集、時間軸の前後、場面転換が制約されるのに、鑑賞者を飽きさせることなく引っ張っていく。カメラがそれまでとは違う従業員や客を捉え追いかけだしたとき、サイドストーリーに分岐したことを鑑賞者は明確に気付くし、店内からバックヤード、事務所やトイレにカメラが動く時に暗い場所や平板な色の内装をフレームに入れることで擬似的にカットやつなぎの効果を得ているところなどはその撮影方法とは逆説的で非常に技巧的だと感じました。

 間違いなく映画史に長く語られる作品になると思います。素晴らしい鑑賞体験でした。 

村田沙耶香『コンビニ人間』文藝春秋社

 本作の主人公、18年間コンビニでアルバイトをして生計を立てている36歳の古倉恵子は「変わった人」なのでしょうか?

 変わっている、変わっていない、というのを私という個人の価値基準で判断することが許されるとしたら「変わっている」と思いました。というか、危うい。

 小学校で友達同士の喧嘩を止めるために両者をスコップで殴りつけた、というエピソードには想像力や共感性の欠如があると思いますし、犯罪行為スレスレの付きまといでコンビニをクビになった差別的言動を振りまく元同僚男性を実験的に自宅に招き同棲を始めるところなどは危機察知のセンサーが壊れているだろう、と思います。

 その男性と恋愛関係や肉体関係に発展することも特になく、もとより36歳の歳まで恋愛やセックスの経験が無い事も私には「そういうこともあるよね」という類のことであるし、古倉恵子の親類や友人が彼女に恋愛や結婚を押し付けるマイクロアグレッションの方にこそ不快を感じる感覚の持ち主なのだけども、私には彼女の「生きるための基本OS」からすっぽり抜けて落ちてしまっているものが気になりました。それは多分、人間の、何かしらの必須の機能です。

 ところが彼女はコンビニで働いている時は店長や同僚とのコミュニケーションも上手にこなすし、思いやりある接客もそつなく、その日の天候や客の動向を予測した店員としての働きは非常に優秀だと言えます。資本が主導して日本中に行き渡らせた、今や社会インフラの役割も担うコンビニチェーンという非常に現代的なシステムの中であれば彼女は活き活きと「機能」するわけです。

 私が危ういと感じる基本機能の欠如がキャンセルされるシステムの中で彼女はとても上手に生きています。

 はたしてそれは人間としての進化なのか、退化なのか。

 終盤で正規職の面接試験をキャンセルしたあとに彼女はこんな事を言います。「(前略)私はコンビニ店員という動物なんです。その本能を裏切ることはできません」

 私には清々しい宣言に感じ取れました。映画『ナイトクローラー』のジェイク・ギレンホールや『JOKER』のホアイキン・フェニックスが見せた「どこにでもいる全ての異形なる人々の毒性青春サクセスストーリー」だと快哉を叫びたい気持ちになりました。

 それにしても登場人物のこじらせ系おにーちゃん白羽という男性の描写やセリフが本当に気持ち悪くて素晴らしい。モデルがいたのかしら?映画『葛城事件』の三浦友和を思い出しました。彼を主人公に一本書いてほしいくらい気持ち悪くて印象深い人物です。