ろぐの垂れ流し

LOVE定額の相手に着信拒否されたことあるか?!

新井由己 著『とことんおでん紀行』凱風社

 おでんのタネの「餃子巻き」 なにそれ!!??

 みなさん食べたことあります? 私は九州生まれ、学生時代と新卒の一時期は関西で過ごし、現在は関東在住で酒場と飯屋をこよなく愛する中年おっさんですが、「餃子巻き」は見たことも食べたこともありません。

 

(写真は静岡駅ちかくの「おにぎりのまるしま」です。コロナの影響で閉店してしまいました。本当に悲しい・・・)

 この本は原付きバイクに乗っておでんを食べながら日本を横断する紀行文的な研究書なのですけど、出汁おでんと味噌おでんの境界や、天ぷらとさつま揚げの境界をリアルに体験して記述しているのでとても貴重な資料だと思います。ツーリングドキュメンタリーとしても楽しめる非常に面白い本でした。
 黒潮に乗って和歌山からたくさんの移住者が千葉(房総半島)にコミュニティを作ったから白浜とか勝浦とかの同じ地名があるとか、漁師町と名物練り物の相関とか、いろいろ勉強になりました。

 

 ついでにおでんの由来についてのスライドを作ったのでご参考までにシェアします。

沢木 耕太郎 著『テロルの決算』(文春文庫)

 2022年7月8日の安倍晋三元首相の銃撃殺害事件の報を受けて私がまず感じたのが、山上徹也容疑者の動機、背後関係その他の真相究明は捜査を待つとしてこの重大な事件を自分の腹にどう収めればいいのかという混乱でした。自分には現役国会議員が衆目の中で銃撃され死に至るという事件を捉えるフレームが無いことに改めて驚き、慌てたのです。2002年10月25日に民主党衆議院議員であった石井紘基が刺殺されたとき、私は会社員になりたてで仕事のプレッシャーと長時間労働、おまけに社会への無関心というコンボでそのニュースについて全くと言っていいほど記憶がありません(刺殺事件から20年近く経ってから、その著書『日本が自滅する日』を読みました。素晴らしい、重要な書籍です。)。
 そこで、日本近現代史における要人暗殺の周辺にある雰囲気というか時代性のようなものを感じるためにもともと手元に(積んで)あった黒川創『暗殺者たち』(新潮社)、デイヴィッド・ピース『TOKYO REDUX』(文藝春秋)、月村了衛『東京輪舞』(小学館)、事件をきっかけに取り寄せた中島岳志血盟団事件』(文藝春秋)のどれかを読もうと考えていました。しかし最終的にはSNSでやりとりをしている友人の勧めで『テロルの決算』を読むことに決めたのです。

 1960年10月12日に日比谷公会堂で開催された三党首立会演説会の演壇で浅沼稲次郎社会党委員長(61歳)が右翼の少年山口二矢(おとや、17歳)に短刀で刺殺されるという事件が起きました。この本は、その事件でまさに交錯することになった二人の人間のそこまでの人生と、事件後の山口二矢の調書をもとに書かれたノンフィクションです。1978年に初版発行ですから沢木耕太郎が31歳のときです。あとがきによると彼が20代の7年間で執筆したということです。若くして才能を発揮する文学者というのはなんとなく理解できるのですが、ことノンフィクションという分野において20代でこのような業績を打ち立てる書き手は寡聞ながら他に知りません。凄い書き手だと思います。そして1979年第10回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した本作はノンフィクションの金字塔として有名ですが評判通りの凄みをもった傑作でした。淡々とした冷徹な筆致でありながら臨場感が極まっていて、まるで高村薫の小説『照柿』を読んでいるときに感じた主人公が凶行に及ぶまでの情念の高まりを追体験しているようなあの読書感とそっくりでした。

 本作を通じて一番印象が強かったのは1960年(昭和35年)頃の日本人のエネルギーの強さです。良く言えば活力に溢れ行動的、悪く言えば野蛮で暴力的な日本人。労働争議も気合が入っていますし、安保の反対運動で警察と学生が衝突して東大生に死亡者が出ています。本作の片方の主人公である浅沼稲次郎は政治デモで警察に逮捕され、警察からひどい拷問を受けています。敗戦から15年後、2022年現在に80歳の方が18歳だった頃の日本。私は敗戦の41年後に生まれた人間ですが、よど号ハイジャック事件あさま山荘事件の振り返りの報道で、暴力の残滓のようなきな臭さを感じるのがせいぜいの幼少期でした。ですから本作を読んで、政治デモのたびに車両をひっくりかえしたり、ゲバ棒もって相手方に突っ込んでいったりで何度も警察のお世話になるなんて世相やその熱量には想像が及ばないところがあるのです。

 では、国政政党の党首を刺殺するという凶行に及んだ山口二矢という少年はやはりギラギラした武闘派だったのかというと全くそんな人間ではなかったというのです。

 杉本は二矢と起居を共にしてあらためて驚かされていた。それは、このような少年が戦後教育の中からでも生まれうるのだ、という驚きであった。礼儀、言葉遣い、挙措、服装、そのどれをとっても折り目正しいものだった。それは二矢と同年代の少年と比べた時、並みはずれていた。(p.205)

 私もこのノンフィクションを読んでいて、山口二矢に野卑なところや粗暴なところが感じられないのが驚きでした。もちろん右翼活動の際には先輩からたしなめられるほどイケイケだった彼ですが、それはどうも活動における使命感や真摯さの彼なりの表現であったように思われるのです。ただ、感受性が人よりも強く、思考が鋭利であったのは間違いないでしょう。比較的リベラルな教育方針だとみうけられる父親にさえ抑圧を感じ、兄にもライバル心よりももっと暗い、畏怖のようなものを感じていた様子が書かれています。そういった素地をもつ山口二矢が右翼活動に傾倒していく端緒を書いたものに強く心に残った箇所がありますので少し長いですが引用します。

 二矢は玉川学園でも養鶏部に入り、黙々と動物の世話をすることを好んだ。休み時間にはよく鶏の世話をしている二矢の姿が見られた。
 だが、二矢が玉川学園にも違和感を覚えざるをえなかった最大の理由は、やはり彼の右翼的言動に対する周囲の視線であった。それはかなり冷たいものだった。学校での二矢のあだ名は「右翼野郎」というのであった。
 ふだんはおとなしく目立たない二矢が、政治的な話になると一歩も退かなかった。友人に対して、というばかりではなかった。むしろ教師に対して、より強硬だった。それは、あまり親しくなかった同級生のひとり石川勲にとっても「一本筋が通っている」と思えるほど、論理的なものだった。
 しかし、教師たちにとっては、小生意気な右翼野郎にすぎなかった。とりわけ担任の若い教師は二矢に好意を持っていなかった。事件後、その若い教師は新聞記者に、「山口の父親は赤尾氏の大のひいきで、母親はいまでも軍歌のレコードを聞きながらゾウキンがけをするような特殊な家庭環境のようで、いわば親たちのこういう態度にも責任があったと思う。また山口は在学中に失恋をし、その劣等感も右翼に走らせる機会を早めたのではないか」。
 と述べた。ここには事実の誤認もあるが、それ以上に、彼の右翼野郎への嫌悪感が際立っている。 そのような冷笑と嫌悪の視線に対し、二矢はさらに頑なになり、昂然と右翼野郎たることを示すようになる。「再軍備賛成論」をぶち、「警職法改定擁護論」を展開した。
 左翼的な思考に慣れた教師たちは、彼の問いかけを常に強圧的に批判するか、あるいは無視するだけだった。少なくとも二矢にはそう受け取れた。この日本において、今や左翼は圧倒的強者であり、だからこそ、その強者と闘わなくてはならないという信念は、 左翼的な教師が自分にとって横暴な強者であるという実感によっても強固なものになっていった。(p.64)

・・・疎外感、冷笑、嫌悪の眼差し、一方的に決めつけられた「劣等感」というスティグマ、強者に強いられた無理ゲーを戦う絶望感。
 付箋を貼ってある部分を読み返してこの箇所に目を通したときに、私は脳の奥の温度が下がったような感じがしました。はたしてこの事件は左翼に対する暴力的抗議と単純化してよいのか、山口二矢はただの政治犯なのか、その疑問が山口二矢の動機の現代性を強く意識させるのです。
 疎外感、冷笑、嫌悪の眼差し、一方的に決めつけられた「劣等感」というスティグマ、強者に強いられた無理ゲーを戦う絶望感、という要素は1960年(昭和35年)における特殊な現象では決してありませんし、支配的な左翼勢力に抵抗する右翼という政治状況からのみ引き起こされるものでもありません。

 少し話が逸れますが、名経営者として語られることの多いジャック・ウエルチ元GE社長には"Neutron Jack(ニュートロン・ジャック)"というあだ名がありました。ジャック・ウエルチの断行するリストラ施策で「会社の建物は残っているが、従業員だけが消える」様子が「まるで中性子爆弾が爆発したようだ」から付けられたあだ名です。氏には不名誉なことかもしれませんが、私はこの中性子爆弾という比喩を聞く時、現代日本の「隠蔽された暴力による内戦」を思い出します。自殺率はG7でトップ、自殺する世代でみると若者が3分の1を占める国。生活保護の捕捉率は1.6%で費用の対GDP比はOECD平均の4分の1の水準。日本の貧困率OECD加盟30カ国中ワースト4。治安は良い国です。犯罪は減少傾向です。ですがこの国のシステムは搾取するリソースが枯れてしまってもなお人間そのものをすり潰して自己再生産を図っているようなのです。足元ではそのシステムのガタが隠しきれず存亡の危機に瀕しているようですが、そのせいでなお一層搾取の暴力性を強めているように見えます。あたかも人間性や死がシステムの温存のために漂白されていっているようなのです。

 私はこれを「隠蔽された暴力による内戦」だと呼んでいます。

 バブル崩壊以降、新生児が育って自分の子供を設けるくらいの時間軸で日本人は無理ゲーを戦ってきました。ゲームそのものも「たけしの挑戦状」が途中で「星をみるひと」に変わってクソ度が増した過酷な無理ゲーです。統治者にとって幸運だったのは、もう我々日本人にはゲバ棒を振り回したり道端の自動車をひっくり返したりして体制に抗議する気合と根性は備わっていないことでしょう。だけども、あまりにも過酷な無理ゲーのリセットボタンをバックアップも取らずに押したくなる人間を生み出す母集団は、想像もできないくらい巨大になってしまっているのです。

 二矢が欲していたのは、「どちらが正しいか」自由に判断させてくれるような人物ではなかった。暗い苛立ちの流出口を見つけ、鋭い反撥心に的確な方向性を与えてくれる人物こそ、必要だった。(p.67)

 政策や雇用形態やテクノロジーで人間的なネットワークをずたずたにされた我々は、「無理ゲーのやめ方」のオプションが豊富ではありません。アドバイスを聞ける人も、望ましくない行いを止める人も、いない人間が多いから。さらに残念ながら我々日本人は受けてきた教育の作用で「オルタナティブを内包する」ことも「規範を内面化する」ことも苦手です。だから日本人は、人間的なネットワークの中で保持されないと暴走しやすい、個としての拭いきれない脆弱性を持っていると感じています。
 
 ならば、痛ましい事件事故を招くような暴発を防ぐために、我々は歯を食いしばって怒りを押さえつけなければならないのでしょうか。自分たちのパラダイムを劇的に書き換えなければならないのでしょうか。今から友人知人を増やし、疎遠の親類に年賀はがきを送れと? 無理ゲーを戦い続けて消耗しきった我々に「成果が出ないのであればもっと頑張れ」というようなラットレース的アプローチは酷というものです。ですから私はみなさんに「熱く戦うためにユルく振る舞う」という明るく健全なアナーキズムを提案したいのです。まず手始めに戦略的サボタージュはどうでしょうか。自分の生活や収入に影響が出ない範囲であらゆることをサボるのです。そこで自分の生活や心に「空間」を作りましょう。空間ができれば連帯をする余裕も、困難を笑いに昇華する余裕も、真に人間的な対話をする余裕も生まれてくるでしょう。

 最後に、第2次世界大戦中のイギリス人がとった戦い方(逃げ方)を紹介する私が大好きな一節を引用して終わりたいと思います。

 イギリス人がナチズムに対して頑強に戦ったのは、寛容な社会を保存するためであって、したがって、戦争中につくられた戦意高揚映画の多くは、ナチス国家との対比で英国における自由を非常に強調しております。それゆえ多くの映画で、ドイツ人は非常に規律正しく、イギリ ス人はむしろだらけたようにえがかれております。BBCで放映されたコルディッツ捕虜収容所からの脱走物語でも、捕虜になったイギリス軍人は監視しているドイツ軍人に比べて「気合い」が入っていないようにえがかれていますが、捕虜たちが工夫をこらし、危険を冒して次々と脱走して行く物語は、イギリス人のもっとも誇らしい戦争中の思い出の一つであります。(p.23) 森嶋通夫 著『イギリスと日本』(岩波新書

 

映画『ボイリング・ポイント/沸騰』

映画『ボイリング・ポイント/沸騰』
監督:フィリップ・バランティーニ 
主演:スティーヴン・グレアム

 編集、CG無しの90分ワンショット。ガチでノーカット長回しでもって映画を一本撮っています。こういうのこそ劇場で観る値打ちありの大好物。もともとは1日2回の撮影を4日間実施する予定だったのが新型コロナの感染拡大で行政指導が入り半分の2日の日程しか撮影が出来ず、4回の撮影のうち3回目が公開用に採用されたとのこと。

 私、厨房のゴタゴタを観るのが大好きなんです。そういった意味で過去最高傑作は『ディナー・ラッシュ』でした。腕はいいけど博打狂いのスーシェフ・ダンカンのハチャメチャな仕事っぷりは普通はクビになってるよね~なんて思いながらホールスタッフがデシャップに向かって自分の担当テーブルの料理を督促するヒリヒリ感がたまらない作品でした。
 若干エンターテイメント寄りの味付けが強いですがブラッドリー・クーパー主演の『二ツ星の料理人』も、料理人の長時間労働や少々の狂気を孕んだプロフェッショナリズムが良く描かれていました。まな板にナイフの腹を押し付けて粘りを確認するシーンや、厨房スタッフの掃除の様子を本編に関係なくきちんと織り込んでくるところが料理への愛があって良い。
 で、本作なのですが、いやぁこれこそ愛だよ、愛。レストラン業界の現場への愛。しびれましたね。作風で言えば実は社会派の作品です。実際にレストランでの勤務経験の長い監督がリアルタイムに人気レストラン(実在する人気店を借用して撮影している)を舞台に労働問題や人種差別や移民問題や格差問題やカスタマーハラスメントやLGBTQ+への無理解やらをさまざまに投げかける。ですので「美味しい一皿が魔法のように生み出される厨房の活気にうっとり」的な味わいの映画ではありません。

 家庭は破綻してアルコールと薬物に依存しているオーナーシェフ(共同経営者有り)のアンディ・ジョーンズを演じるのはスティーヴン・グレアム。『スナッチ』でステイサムの舎弟をやっていたのがとても印象深かった彼も大御所の風格です。そんな彼が経営するのはロンドンのダウンタウンにある人気高級レストラン。クリスマス前の金曜日で予約がいっぱい。それなのにシェフのアンディは前日の発注はサボっているし店には遅刻するし、息子の行事は忘れてすっぽ抜かすし・・・だめな大人の典型みたいな描かれ方で人物紹介をされる導入で物語はスタートします。 遅刻して店に向かい速歩きするアンディを横から捉えるショットでスタートするのですが、そこからの90分、撮影監督マシュー・ルイスの体に装着されたジンバルとカメラが舞台となるレストランの厨房やホールに時にはバックヤードや裏路地を駆け回り、「沸騰」寸前のひりひりする人間模様を追いかけます。サイドストーリーで2本ほど破綻から立ち直る予兆を見せる脚本はありますが、ほとんどが「沸騰」して終わります。いや、それでいいんだと思います。

 尋常じゃないストレスとプレッシャーに晒されているのは、ショービジネス界の住人でも、特殊部隊の兵士でも、とんでもない金額を扱うトレーダーでもない、われわれ市井の人間にも特に親しみのある「食いもん屋で働く人々」です。ここに監督の本作に込めた「社会問題」を普遍化する仕掛けがピリッと効いていると思うのです。まずですね、サービスやモノに対価を払っているからといって人に対して横柄にふるまっていいと勘違いしている人間の比率や深刻度合いっていうのがその社会の成熟度というか「余裕度」を表すと思うのですよね。作中にも明示的、暗示的にカスタマーハラスメントが出てきます。明らかな人種差別からマイルドなマウンティングまで。それが日本ではなく英国でも同じく存在する構造的な社会問題だということに暗澹たる気分になりました。だからこそ、カメラが縦横無尽に駆け回るレストランの中で、それは私が大好きな料理とお酒とテーブルと調理機器の世界であるにせよ、同時進行的に起こっている問題だらけのアンサンブルドラマを「もっと楽しい脚本でエキサイティングに撮ればいいのに」と思った自己欺瞞に自覚的にならねばならないと思いました。そういう作品が他にあってもいい。だけどこの作品は「消費される舞台装置」としてのレストランではなく、それぞれ生活や家族や目標やストレスやプレッシャーや鬱屈を抱えた人間たちが働く「問題ある職場」たるレストランだからです。この映画にエンターテイメントを求めるとき、自分は間接的にレストラン業態に加害している。

 もともとがそういう問題意識で撮られたワンショットノーカット短編の作品を長編に拡張した作品なので、突飛な撮影スタイルに振り回される独りよがりなあざとさが無いのが素晴らしいです。緊張感あふれる店内に次から次への飛び込んでくるトラブルに徐々に従業員たちの精神が沸点に近づいていく切迫感や作品のテンションを維持するのにノーカット撮影は適しているし必然の選択だという納得感を強く感じます。実際には、鑑賞中にはその撮影方法の特殊さを意識することはほとんどなく、没入感が先行します。人物配置と店の構造とカメラの導線を綿密に計算した脚本を「店ありき」で作り上げてるから出来た稀有な90分と言えるでしょう。カット、編集、時間軸の前後、場面転換が制約されるのに、鑑賞者を飽きさせることなく引っ張っていく。カメラがそれまでとは違う従業員や客を捉え追いかけだしたとき、サイドストーリーに分岐したことを鑑賞者は明確に気付くし、店内からバックヤード、事務所やトイレにカメラが動く時に暗い場所や平板な色の内装をフレームに入れることで擬似的にカットやつなぎの効果を得ているところなどはその撮影方法とは逆説的で非常に技巧的だと感じました。

 間違いなく映画史に長く語られる作品になると思います。素晴らしい鑑賞体験でした。 

村田沙耶香『コンビニ人間』文藝春秋社

 本作の主人公、18年間コンビニでアルバイトをして生計を立てている36歳の古倉恵子は「変わった人」なのでしょうか?

 変わっている、変わっていない、というのを私という個人の価値基準で判断することが許されるとしたら「変わっている」と思いました。というか、危うい。

 小学校で友達同士の喧嘩を止めるために両者をスコップで殴りつけた、というエピソードには想像力や共感性の欠如があると思いますし、犯罪行為スレスレの付きまといでコンビニをクビになった差別的言動を振りまく元同僚男性を実験的に自宅に招き同棲を始めるところなどは危機察知のセンサーが壊れているだろう、と思います。

 その男性と恋愛関係や肉体関係に発展することも特になく、もとより36歳の歳まで恋愛やセックスの経験が無い事も私には「そういうこともあるよね」という類のことであるし、古倉恵子の親類や友人が彼女に恋愛や結婚を押し付けるマイクロアグレッションの方にこそ不快を感じる感覚の持ち主なのだけども、私には彼女の「生きるための基本OS」からすっぽり抜けて落ちてしまっているものが気になりました。それは多分、人間の、何かしらの必須の機能です。

 ところが彼女はコンビニで働いている時は店長や同僚とのコミュニケーションも上手にこなすし、思いやりある接客もそつなく、その日の天候や客の動向を予測した店員としての働きは非常に優秀だと言えます。資本が主導して日本中に行き渡らせた、今や社会インフラの役割も担うコンビニチェーンという非常に現代的なシステムの中であれば彼女は活き活きと「機能」するわけです。

 私が危ういと感じる基本機能の欠如がキャンセルされるシステムの中で彼女はとても上手に生きています。

 はたしてそれは人間としての進化なのか、退化なのか。

 終盤で正規職の面接試験をキャンセルしたあとに彼女はこんな事を言います。「(前略)私はコンビニ店員という動物なんです。その本能を裏切ることはできません」

 私には清々しい宣言に感じ取れました。映画『ナイトクローラー』のジェイク・ギレンホールや『JOKER』のホアイキン・フェニックスが見せた「どこにでもいる全ての異形なる人々の毒性青春サクセスストーリー」だと快哉を叫びたい気持ちになりました。

 それにしても登場人物のこじらせ系おにーちゃん白羽という男性の描写やセリフが本当に気持ち悪くて素晴らしい。モデルがいたのかしら?映画『葛城事件』の三浦友和を思い出しました。彼を主人公に一本書いてほしいくらい気持ち悪くて印象深い人物です。

映画『神々の山嶺 (いただき)』2021年フランス

映画『神々の山嶺 (いただき)』2021年フランス

小説原作:夢枕獏  コミック原作:谷口ジロー
監督:パトリック・アンベール

 ヒューマントラストシネマ有楽町で観てきました。劇場の特性なんでしょうか、大都会東京の映画ファンの裾野の広さ故なのでしょうか、アニメ映画にしては予想外の8割位の客の入り(162席シアター1)に老若男女の幅広い客層でした。

 結局のところは鑑賞して分かったんですが、これ、作品が抜群に面白いからですね。凄かったです。大満足。構想から7年の製作期間は伊達じゃないと思います。

 私自身はアニメ映画に特に思い入れがあるわけではなく、わりとまんべんなく楽しむ映画の1ジャンルというくらいの位置づけなので鑑賞本数もそれほど多くはないのですが、もしかしたら私のアニメーション映画のオールタイム・ベストになるかもしれません。

 美術的にスキのないバッキバキにキマった高次元な作画に、登山シーンなどに見られる緻密でリアルなアニメーション。ライティングも構図も非常に素晴らしい。特筆すべきは山岳シーンのダイナミックさ、視野の広がりと、東京の都会の風景やオフィス、居室の描かれ方に漂う生々しさに殺伐とした感じさえする静けさのコントラストだと思います。

 さらに脚本も最高。ミステリー要素が上手く配置されて、3つの時間軸の行き来がロケーションとドラマの展開を豊かにしています。孤高のクライマー羽生というとっつきにくい謎めいたキャラクターに、取材者・ライバル・弟分・先駆者という登場人物達との関係性を描くことで羽生の人間味と狂気を立体的に浮かび上がらせる、過剰さやあざとさを微塵も感じさせない上質なドラマでした。

 アニメーションで映画化したというのは大成功だったと思います。撮影演出やロケの制約がどうしても強くなる題材ですが、脚本と絵作りをきちんとコントロールできるパトリック・アンベール監督がその手腕で「実写映画化であるならば」のハードルを上手くキャンセルして絶品の作品に仕立てたと思います。鑑賞の翌日にこの作品の映像を思い出すと、なんだかアニメ映画じゃないようなリアルなイメージが脳内再生される不思議。

 フランスで製作されたフランス語のアニメですから、日本語版は吹き替えなんですよね。だけど主要登場人物は全て日本人なので吹き替えに全く違和感がない、まさに日本のスクリーンで楽しむのにうってつけの作品だと思います。羽生の声をやっている大塚明夫さん(「ワン・ピース」の黒ひげ、攻殻機動隊シリーズのバトー役)の低くて太い声を劇場の音響で聞くとなんと心地よく腹に響くか・・・。

 世界的なクライマー山野井泰史と山野井妙子によるヒマラヤの難峰ギャチュンカン登頂挑戦を題材にした沢木耕太郎『凍』を下敷きにした音声ドラマがあって、主役を三上博史がやっているんですが、これがとても良くできていて面白いんです。
https://spinear.com/shows/sawaki-kotaro-tou/
ポッドキャストSpotifyなどで無料で聴けるのでぜひお試しください。酷暑の日本がなんと天国みたいな良いところかと思えます。

 この音声ドラマがきっかけで山岳・極地冒険モノに興味が出ていくつか好きな作品ができました。角幡唯介 著『極夜行』文藝春秋 社、映画『ニルマル・プルジャ 不可能を可能にした登山家』(Netflix)、映画『THE DAWN WALL』なんかが好きです。映画の2本はけっこう爽やかでハッピーになれるのでオススメです。今回鑑賞した『神々の山嶺』はこの中でも間違いなくトップに入ります。

 手元にコミック版『神々の山嶺』を読まずに置いておいたので、今から読もうと思います。それが終わったら積読沢木耕太郎『凍』に手を付けましょう。

 私の、暑い暑い夏の楽しみ方。

町屋良平『1R1分34秒』新潮社

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 ボクシングを題材にした好きな映画がいくつかあります。安藤サクラ主演の『百円の恋』、フランス作品の『負け犬の美学』は大好きな映画です。プロを続けられなくなる年齢制限を前にタイトル戦にチャレンジする不器用な会社員ボクサーを追ったノンフィクション作品『一八〇秒の熱量』山本草介著は読み物全般の中でもかなりのお気に入りです。アツい!最高!

 ところがボクシングを扱った小説となると全く読んだことがありません。といっても寡聞にして寺山修司あゝ、荒野』(未読)しか思いつかないのですが・・・

 そんなわけでボクシング小説初体験でした。

 いや実に面白い!読んでよかった!

 

 じっとりじめじめ精神世界の闇を覗き込む・・・のようなわたしの勝手な芥川賞作品への先入観はあっさり裏切られ、乾いた短い文体の積み重ねで主人公の肉体との非常に実存的な対話が書かれます。これがスポーツ作品や山岳小説の醍醐味ですね。

 この作品の優れたところは、その「肉体との対話」が主人公の観念のもやもやの解消につながっていく様が非スピリチュアルな語り口で描かれているところだと思います。

 ぶっきらぼうな先輩ボクサーがトレーナーにつき、ボクシング技術はもちろん体の使い方や生活リズム、食事の指導を受けることによってボクサーとしての成長を実感しながらそれに加えて主人公の見る世界がクリアになっていって、世界とのコネクションがスムーズになっていくその様が、特にドラマチックな盛り上がりがあるわけではないのだけどわたしにはとてもエキサイティングで爽快でした。

 そして、読了後にはたと気付いたことがあったのですが、この小説、作中で登場人物の容姿を全く説明しないのです。読んでいる途中では疑問にも思わず違和感も無かったのですが、この独特の世界観を作るのにきっと影響している書き方だと思うのですよね。

 時間が経ってから再読しなくては。

映画『モーリタニアン 黒塗りの記録』ケヴィン・マクドナルド監督

監督    ケヴィン・マクドナルド
出演 ジョディ・フォスター     ナンシー・ホランダー
   タハール・ラヒム          モハメドゥ・ウルド・スラヒ
   ザカリー・リーヴァイ        ニール・バックランド
   サーメル・ウスマニ
   シェイリーン・ウッドリー      テリー・ダンカン
   ベネディクト・カンバーバッチ    スチュアート・カウチ中佐

 

 ケヴィン・マクドナルド監督『モーリタニアン 黒塗りの記録』を観ました。


 米国の国家権力の暴走を描いた映画ですが、これがちゃんと批判とエンターテイメントが両立しているのが凄いですよね・・・。めちゃくちゃ面白かったです。拷問シーンは目を背けたくなるほど酷いですけど。米軍女性兵士による男性収監者へのレイプが「特殊尋問プログラム」の一環として実行されていたなんて、なんて狂ってんだと思います。

 敵と恐怖と正義があれば、人間はこんなにも残酷になれる。

 これと『ザ・レポート』『バイス』『ルーミング・タワー』を観れば、当時ブッシュJr、チェイニー、ラムズフェルド、ライスと揃いも揃ってクソみたいな政治家が傍若無人に振る舞っていて、米国をさんざん痛めつけていたんだな、と感慨深いです。唯一『ゼロ・ダーク・サーティ』だけは正義の執行とプロフェッショナリズムについて肯定的に描いています。本作の冒頭の拷問シーンの扱いについて初めて観た当時は戸惑いましたが、上述の作品群や『ボーダーライン(SICARIO)』を観てようやく米国人にとっての「腫れ物」なんだと分かった次第です。

 米国が自由と平等の国だとも民主主義の聖地だとも思いませんが、少なくともこれらの映像作品が商業的なプラットフォームで有名俳優を起用して作れる土壌があるというのは日本とは大きくかけ離れたところであると思います。


 映画『牛久』なんかが日本人映画監督によって手掛けられない現状に、世界報道自由度ランキングが昨年の67位から71位に着実に後退している日本で、憲法変えたい厨二病患者が他所の国の戦争を見てソワソワ浮かれ騒いでいるというのはとても気持ちの良い世相とは言えません。