監督: ナチョ・ビガロンド
出演: アン・ハサウェイ グロリア
ジェイソン・サダイキス オスカー
ダン・スティーヴンス ティム
オースティン・ストウェル ジョエル
ティム・ブレイク・ネルソン ガース
監督: ナチョ・ビガロンド
出演: アン・ハサウェイ グロリア
ジェイソン・サダイキス オスカー
ダン・スティーヴンス ティム
オースティン・ストウェル ジョエル
ティム・ブレイク・ネルソン ガース
『二ツ星の料理人(Burnt)』
監督: ジョン・ウェルズ
出演: ブラッドリー・クーパー アダム・ジョーンズ
シエナ・ミラー エレーヌ
オマール・シー ミシェル
ダニエル・ブリュール トニー
マシュー・リス リース
ユマ・サーマン シモーネ
エマ・トンプソン ロッシルド医師
これは良かった!あんまり期待せずに見始めたけど、凄く作りが良い!冒頭の牡蠣剥きの禊ぎのプロットからグッと掴まれて、料理評論家としてユマ・サーマンが出てきたときにはもう夢中になってた。
全編に料理やレストランに対する愛情が溢れてて、音楽は抑えたものだけど躍動感あふれる厨房のシーンが沢山。途中、フライパンを使う伝統的フレンチの料理法と真空低温調理の理論新旧対決辺りで描写がバタついた感はあったけど、かなり丁寧に料理を軸に映画を撮ってる。殆ど客席は映さない。シェフ、スーシェフ(副シェフ)、支配人、ギャルソンの役割分担とキャラの書き分けを相当しっかりやりながら、あんまりメインプロットにごちゃごちゃかませずに主人公のシェフ、ブラッドリー・クーパーの料理シーンを中心にきっちり目のカメラワークで映画は進行する。
ブラッドリー・クーパーの分刻みの指示に厨房全員から" Yes, chef!"の掛け声。カメラはブラッドリー・クーパーとソシエ兼スーシェフのシエナ・ミラーの手元に行き、付け合わせのトッピングとソース、お皿を綺麗にする動作の後、お皿の縁を真横から押すようにしながら、ホールに向かって、
“ Service!! ”
このセリフに何度痺れたか。
ナイフの粘りを確かめたり、後進の若手がデシャップを務めるときに、メインの盛り付けをちょっと直してあげたり、細かいけど堪らない演出がいっぱい。ヒロインのシエナ・ミラーの腕に火傷跡をわざわざ付けてる細かさ! 三ッ星フードレストランの方の「シェフ!」のジョン・レグイザモのバンテージを思い出した。個人的には、度々厨房の掃除のシーンを使ってくれていることが嬉しかった。厨房スタッフがその他大勢じゃなくて、一生懸命その日の汚れを一生懸命落としている姿は清々しい。脚本において殆ど必要性のないそんな店仕舞いのシーンを差し込んでくれることに、レストランというものへの深い理解と愛を感じた。
物語はいくつかのロマンスを絡めながら、腕はあるけど破壊的な性格のブラッドリー・クーパーの浮き沈みで進んでいくのだけど、結局のところ、凄く気の小さい自信の無い自分をさらけ出して一皮剥けるおっさんの成長物語。
ライバルとのあの朝食のシーン、泣けたなぁ。あのプレーンオムレツ、美味かったんだろうなぁ!
ブラッドリー・クーパーは間違いなく格好いい!情けないところをみせても上手い。いい役者さんですね。
レストランの支配人、お師匠さんの息子役の彼、『誰よりも狙われた男』にも出てるけど存在感ある。気になります。
全体的に、僕の大好きな「ディナー・ラッシュ」を料理人主役の人情話に書き換えたような作りでとてもお好みの味わいでした。とにかくユマ・サーマンにやられたな〜。
レストラン映画の上位に入りました。
<今のところの好きランキング>
① シェフ 三ツ星フードトラック始めました
②ディナー・ラッシュ
③ 二ツ星の料理人(Burnt)
④ソウル・キッチン
⑤恋人たちの食卓
FACTFULNESS(ファクトフルネス) 10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣
事実や数字をかくも軽んじる日本人の価値観の上位にあるもの。日本人の反省と学習と成長を阻んでいる " it "って何なんだろう。
数も数えられない役所に自分や家族の財産や生命を喜んで預けたがるほど、僕はマゾヒスティックな人間ではない。
政権交代にもつながった「あれ・・・この年金誰のなん?5,000万件くらいあるけど」問題から干支も一周しました。
日本人が真面目できめ細やかで几帳面だなんて、まだ信じている人がいるとしたら、考えを改めないとエライ目に遭いますよ。
『 ある一つの主義に基づき、ある対象が在ることにする。奇妙なことに、これが、歴史的にも同時代的にも、そして昔も今も日本で行われてきたことであった。精兵主義は確かにあった。しかしその主義があったということは精兵がいたということではない。全日本をおおう強烈な軍国主義であった。だがその主義があったということは、強大な軍事力があったということではない。
ところが奇妙なことに、精兵主義があれば精兵がいることになってしまい、強烈な表現の軍国主義があれば、強大な軍事力があることになってしまう。これはまことに奇妙だが、形を変えれば現在にも存在する興味深い現象である。そしてこの奇妙な現象が日本の敗因の最大のものの一つであった。そしてそれを思うてき、小松氏が、これを二十一ヵ条の冒頭にもって来たことは、私などには、なるほどとうなづけるのである。
なぜこういう奇妙なことが起こるのであろう。日本人全部がいかに激烈な軍国主義者になったところで、昭和のはじめの日本の常備兵力は、実質的には日露戦争時と変らぬ旧式師団が十七個あるだけであった。総兵力十七個師団。約三十万人余。これは、当時の日本の経済力を考えれば、ほぼ精一杯の師団数であったろう。通常、完全編成の一個師団の兵員は一万五千だが、日本の師団は二万。その理由は、自動火器の不足を単発の小銃の数で補うためだったといわれる。
その火力はアメリカの戦艦の五分の一以下、簡単にいえば、五個師団半の火力の総計でやっと戦艦一隻分の総火力である。そして伊藤政徳氏によると、この十七個師団の中で、アメリカの海兵師団と対等にわたりあえる能力のある師団は、一個かせいぜい二個であったという。
日本全体がどのような主義を奉じようと、奉じただけでは、現実にはこの数がふえるわけでも減るわけでもない。全日本人が強烈な軍国主義者になれば一気にこれの能力が十倍百倍するわけではなく、海兵隊と対等でわたりあえる師団が一個師団か二個師団かという現実には、何の変化もありえない。』p.75
『 ところが奇妙なことに、昔も今も、この馬鹿げた発想が存在するのである。その昔、火力その他から厳密に計算して、日本の師団のうち海兵師団と対等でありうるのは一、二個師団、と公然と発信する者がいれば、それだけで、その者は日本国民の資格のない者、すなわち非国民であった。だがしかし、それへの反論は、常に厳密な合理的数字による反論ではないのである。』p.77
『 結果として一切が水増しとなり、すべての「数」が、虚構になる。それを知ったとき、最終的には、すべての命令も指示も理論も風化し、人はただ自己の経験則だけをたよるのである。』p.85
『 そしてその第一歩は何だったのだろう。「ない」ものを「ない」と言わずに、「ない」もの「ある」というかいわないかを、その人間の資格としたことであった。一言にして言えば「精兵主義はあっても精兵はいない」という事実を、一つの「事実」としてそのまま口にできない精神構造にあった。最後の最後まで「員数」すなわち「虚数」を「実数」としつづけ、そして「実数」として投入された「員数」は、文字通りの「員数」として、戦闘という実質の前に、一方的に消されていったわけである。』p.97
「日本はなぜ敗れるのか --敗因21ヵ条」山本七平
『十三人の刺客』 1963年 日本 125分
里見浩太郎 島田新六郎
内田良平 鬼頭半兵衛
丹波哲郎 土井大炊頭利位
嵐寛寿郎 倉永左平太
西村晃 平山九十郎
月形龍之介 牧野靭負
河原崎長一郎 牧野妥女
水島道太郎 佐原平蔵
加賀邦男 樋口源内
沢村精四郎 小倉庄次郎
阿部九州男 三橋軍次郎
山城新伍 木賀小弥太
菅貫太郎 松平左兵衛督斉韶
2010年リメイクが大好きな『十三人の刺客』、1963年のオリジナルを観てみました。
・・・だけども残念ながら、僕には三池崇史2010年版の方が面白く思えました。
片岡千恵蔵が劇中で言った通り、刀で殺し合いをしたことがある人間なんていない時代の侍の集団闘争がクライマックスに据えられていて、彼らといえどもいざ殺し合いの場に立てば剣道修行なんて頭らか離れて無様で悲惨な茶番に陥るというのは本作の大事なテーマだと思っています。だから野球バット振るような刀の扱いや、刀を振ったあとにピョンっと後ろ足が跳ねてしまうような滑稽な役者の所作なんかは敢えてのリアリティだと思って納得ずくで観ていました。本作で最も冴えわたる剣技を持っているらしい西村晃演じる平山の実戦でのわやくちゃぶりも、その演出の延長戦上にあればこそ。
しかしどうしても時代的・技術的制約以外の部分で絶対的にこの映画のアクションシーンは丁寧さが足りないと感じられたのです。日本刀のチャンバラはまだしも、槍で突く動作になんかに軽さがどうしても目につきます。高所から丸太を落とすシーケンスでも「おいもっと直接的にダメージを与えられる設置場所とかタイミングとかがあるでしょ!」と突っ込みたくなります。そもそも、あれだけうまい事隘路に敵を誘導できる街道の設計ができていたのであれば火と油を使わないのはなんとも不合理。それくらい明石藩は地理的に追い込まれていたはず。油が手に入らなかったのか、宿場が燃えてしまうのをためらったのか。それも金に物言わせる片岡千恵蔵の段取りからすると矛盾を感じざるを得ない。それらの点については三池崇史版は偏執的なほど緻密に構成していました(ぶっ飛んだ蛇足も多い映画ですが)。本作の鑑賞後、その点においてどうしても三池崇史版を高く評価していたのです。
そう、片岡千恵蔵と言えば、明石藩が宿場に着いてからもずっと庄屋の屋敷の様なところで宿場の見取り図を見ながら戦況の報告を受けておりました。・・・おいおい十三人しかいねぇんだろ!現場行けよ!! 千恵蔵さんのとなりには嵐寛寿郎演じる倉永が控えており、戦況を報告に来るものが時折屋敷に入ってくる。ということは13人しか手勢をそろえられなかったのに3人も現場から遠ざけているっていうことになりますわな。多数の敵と対峙している他のメンバーはこれに納得しているのかしら。宿場を見渡せる櫓組んどきゃリアルタイムで戦況把握と采配ができるだろうに。
それに比べると、敵方のリーダー内田良平演じる鬼頭半兵衛の泥臭い働き者っぷりと言ったら!(本当の意味で言えばお殿様の松平斉韶が一番偉いけど、彼はポンコツでただのお荷物) すっかりカオスに支配された宿場で上司を逃がすためにバシバシと意思決定を下しながら本人も刀を振るい奔走します(半分ぐらい罠のある方に行っていますけど)。中盤に片岡千恵蔵演じる島田新左衛門が鬼頭半兵衛を「手ごわい相手だ」と認めているシーンがあります。侍として筋の通った強敵である、と。そんな前振りもあるので、給与所得者の小市民である自分なんかは俄然、鬼頭半兵衛を応援したくなって話の筋をどう追っていいのか混乱を来すほど。生きろ!半兵衛!!
泰然としつつ腹に据えた覚悟をもって事に当たる刺客のリーダー島田新左衛門と、邪悪なうえに小物っぷりも味わい深いポンコツ上司である松平斉韶をなんとか明石まで帰そうと奮闘する武闘派官僚のような鬼頭半兵衛。この二人のコントラストを強めるために島田新左衛門(片岡千恵蔵)はラストのラストまで刀を抜かせてもらえなかったのか。それもあるかもしれないけども、この作品にはもう一つ大事なテーマがあるように思われました。
島田新左衛門も鬼頭半兵衛も、自分の役割というものを組織でのポジションや偉いさんへの忖度や職掌のようなもので決めていません。セリフとして出てくる「侍の一分」なんていうタテマエというかキレイゴトさえも、突き詰めていくと二人にとってはどうでもいいこととして生きているように見えたのです。二人には、生きる理由も死ぬ理由も「外(そと)」には無さそうなのです。とても純粋で内発的な動機をもって侍として働いているように映りました。
島田新左衛門にとってそれは逆境を楽しむような勝負師の静かな倒錯性だし、鬼頭半兵衛にとっては職業人としてのばっちばちのプライドだったと見ました。
ラストでその二人が対峙する時に島田新左衛門は鬼頭半兵衛の「役割」を尊重し、全うさせました。もちろん自分の「役割」も果たし、それを部下にやらせたがために部下のその後に禍根を残さぬよう自分一人で始末を付けたのです。そのためにあの場でずっとその機会を待っていたのか!
なんと、この文章を書きながら脳内再生をしてみると恐ろしく良くできた脚本ではないですか。
自己の矜持や信念に拠らず、何事も空気や同調圧力に負けて判断を下し、その結果からも逃げ回る現代人に対してこんなに辛辣な脚本もないでしょう。死んじゃおしめぇよ、とは言いますものの、『死んでるみたいに生きたくない』と渡辺美里も歌っています。刀で切った張ったをするよりも、もっともっと緩やかな死を迎えている人たちって今の世の中には相当数いるような気がしてなりません。
当時、この作品は時代劇の「型破り」でした。
「破」ったのはチャンバラの型でした。劇中の侍たちの戦いは滑稽なほど格好悪くて混乱している。
ところが、人物の書き方や筋書きはとても繊細で王道を行くもの。
そして三池崇史監督は1963年の工藤栄一版『十三人の刺客』が破綻させた集団チャンバラをしっかりと再構築し、起用した役者たちの現時点におけるポジションを絶妙のバランスで暴走させています。
前言撤回します。どちらも歴史に残る名作でした。