話は少し飛躍しますが、戊辰背戦争~西南戦争、日清、日露にかけて兵隊が脚気でたくさん死んだのですけど、森鴎外はそれを伝染病と言い張っていました。それに反論していたのは我らが郷土宮崎出身の高木兼寛です(参考:吉村昭『白い航路』)。森鴎外のドイツ医学理論派と高木兼寛のイギリス実践医学派の対立とも捉えることが可能です。結果、高木兼寛のほうが正しくて、森鴎外のせいでたくさんの兵隊が死んだことになり、高木兼寛は「ビタミンの父」と呼ばれるようになりました。ただ本人は脚気の原因を栄養素不足とまでは特定できていたのですが、特定のビタミンとまでは断定できていなかったのです(炭水化物の摂り過ぎ、タンパク質不足と考えていた)。