ろぐの垂れ流し

LOVE定額の相手に着信拒否されたことあるか?!

『悪人伝』(韓国/脚本・監督 イ・ウォンテ)  

 

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昨晩、レイトショーで観てきました。期待通り面白かった! 途中はずっと高めの棒球みたいな進行だったけど、あのラストは巧すぎる!! 韓国のアクションヴァイオレンス映画が圧倒的な演技の技術でオチを付ける時代になったかと、銃撃音の音圧を上げていればハリウッドレベルになれると思っていた『シュリ』からすると隔世の感があります。
 
このジャンルの韓国映画にしてはかなり「キレイ」に撮っています。『チェイサー』で犯人がアジトにしているアパートの禍々しいほどの水回りの汚さ、水槽の不快感。『新しき世界』冒頭の釣り堀のシーンの水の不気味さ。『悪魔を見た』のトイレのシーンのグロテスク丸出しの不潔感。『オールド・ボーイ』では監禁シーンに続き犯人探しのための食事のシーンがとても気持ち悪い。劇中のある一味の食事シーンが意図的に汚いのは『哀しき獣』。
 
随分横道に逸れたけども、僕が韓国映画に抗し難い魅力を感じる要素にそういった「画面から伝わってくる生々しい気持ち悪さ」があるのだけども、この作品はスカッとそこら辺はカットして潔くアクションエンターテイメントに舵を切っていました。とはいえ本作にも水槽が2度出てくるので、韓国人作家には「水」もしくは「水槽」に対する穢れの意識があるのかもしれない。鈴木光司が井戸(貞子)や貯水タンク(『仄暗い水の底から』)に示した執着のような。もしくはシリアルキラーの描写を端折るために絵や水槽の使い方は意図的に『チェイサー』を引用しているのかもしれません。ノートの使い方は『セブン』の借景でしょう。
 
冒頭は主演のヤクザの親分マ・ドンソク(写真の左の大写し)のキャラ付けを中心に物語が立ち上がるのだけど、スポーツジムでのあのシーンは歴史に残りますね。いやね、よくある例えですよ。それを映像化する??前半は彼の「凶悪」の肉付けがメインディッシュ。圧倒的な体格の雄弁さに、憎たらしいほど繊細な顔芸。素晴らしい俳優です。
 
そこにオーソドックスな進行でシリアルキラーの犯行シーンが重なっていく。で、不幸で笑えるこの映画の前半の目玉となるジャムセッションが起こるのだけど、シリアルキラー役のキム・ソンギュが良い。『セブン』と比べれば随分と早いタイミングで顔が出ちゃう。だけどその顔と眼が素晴らしく不気味なんですよね。日本にこんな俳優がいれば、あの映画やあの映画もずっとずっと締まっただろうなと想像できる稀有なルックスです。
 
中盤くらいから刑事役キム・ムヨルがゲームメイカーとして映画を引っ張っていく。彼がまたいい。男前過ぎず無鉄砲さと真面目さのバランスが良い。でないと、彼のやっていることは世間的にも映画的にも無茶苦茶。それを破綻させず観客を醒めさせず脚本を進行させる非常に大事な役回りを担当している。この人は上手だった。後半ラストまでそのふてぶてしい態度でゲームメイカーを全うする。
 
<ここからネタバレ有り>
そしてこの映画のマイナスポイントに挙げられそうな中盤あたりのヤクザ(マ・ドンソク)と刑事(キム・ムヨル)のほっこりエピソード。なんやこれ?と思っていたら、鑑賞後に思い返して、この映画の構造を理解するための大事なシーンだと理解できた。
 
この映画の主演はヤクザのマ・ドンソクで、そして彼は暴力がダブルのスーツを着て歩いているような極悪人。そんなヤクザがシリアルキラーキム・ソンギュと邂逅して極悪人同士のマウントの取り合いをするというのがこの映画のテーマ(三つ巴でシリアルキラーをヤクザと刑事で取り合いをするというのはその次のテーマだと思っている)。シリアルキラーが拘束されてヤクザと向かい合うシーンで、ヤクザはシリアルキラーに「お前は俺と一緒だ」と言われて烈火の如く怒る。「お前と一緒なわけがないだろう!」と。この意味が反転するんですよ。ほっこりエピソードがあるからラストにかけての「反転」が活きてくる。巧すぎるだろ、これ。
 
そのシーンの前にシリアルキラーの眼と顔に関する描写が2回ほど出てくるのですが、それがこの映画のカタルシスにつながるなんて巧すぎる伏線。アクション中心で自分には喰い足らなかった後半までの欲求不満を吹き飛ばす爽快なラスト。しかもそれが派手なアクションや凄惨なバイオレンスで描かれるのではなく、シリアルキラーとヤクザの「表情」で演出される。
 
前述した、前半にあるシリアルキラーの眼と表情を描いたときと違うものがスッと出たあとのヤクザの顔芸の被せ・・・。「お互い命懸けのゲームをやってきたんだ。ケリをつけようじゃないか。」名言である。結局シリアルキラーは、例えば花村萬月原作漫画『犬・犬・犬』のマヒケンのような無痛覚を装っていても、自分の命をベットしなければならないゲームをやっていたわけじゃなかった訳だ。
 
途中、刑事たちが連続殺人の犯人像に迫るときに「ただのサイコパスじゃない」と分析するのだけども、そんじょそこらのサイコパスを超えたシリアルキラーであっても、法と道徳感情と無縁ではあるが社会では孤立した存在でしかない。そこに法も道徳も人の命もなんとも思っていないヤクザは面子としがらみを抱え込んで幾分かの人間味も匂わせながら真っ向勝負をした。
 
勝ったのは成熟した大人の社会性だったと思えば、このヴァイオレンス映画が、教科書的に少し良い話に思えてくる。