『読書について 他二篇』ショウペンハウエル著、岩波新書
著者は1800年代中盤に活躍したドイツ人の哲学者。ニーチェに影響を与え、そしてそのニーチェと相互に刺激しあったと言われている文豪がドストエフスキー。そんな世代の人の書いたもの。内容を簡単に言うと、上から目線のおっさんがずっと怒っている本。批判の対象は、価値の無いテキストの氾濫、簡潔さを至上命題として国語(ドイツ語)をズタズタに改悪する当時の文壇、バズった話題書を追いかける意識低い系読者層、金のために無責任な批評を書く匿名ライター・・・などなどで、あまりに現代的すぎて苦笑いが止まらない。200年近く人間の「書物」に対する態度は紙がデジタルになったところでそないに変わっていないということか。
なんでそんな本を買って読んだのかというと、多読という行為についてたいそう辛辣な考えが綴ってあるから。ちょっと自分の頭のネジを巻きなそうと思って。
読書は思索の代用品にすぎない。
読書は言ってみれば自分の頭ではなく、他人の頭で考えることである。絶えず読書を続けて行けば、仮借することなく他人の思想が我々の頭脳に流れ込んでくる。ところが少しの隙もないほど完結した体系とはいかなくても、常にまとまった思想を自分で生み出そうとする思索にとって、これほど有害なものはない。
読書は、他人にものを考えてもらうことである。本を読む我々は、他人の考えた過程を反復的にたどるにすぎない。習字の練習をする生徒が、先生の鉛筆書きの線をペンでたどるようなものである。だから読書の際には、ものを考える苦労はほとんどない。自分で思索する仕事をやめて読書に移る時、ほっとした気持ちになるのも、そのためである。だが読書にいそしむかぎり、実は我々の頭は他人の思想の運動場にすぎない。
もう身も蓋もない。
彼自身が哲学者であり著作家であるという前提を割り引いて考えても、私が考えていた「勉強家」の姿を「アホなコピペ野郎」と断じている訳で。
ただ、定評ある専門の大家による著作、長い時間の評価にさらされ生き抜いた古典を読むべき、という考え方はビジネス会の読書クレイジー出口治明氏(ライフネット生命会長)の考えと同じであるし、「本は2度読め」というのは『知的生産の技術』で梅棹忠夫氏で書いてあることと同じであることを踏まえると、この本の中身は世の中の普通の読み手に対しても言えることなのかしら。自分はあとで引けるリファレンスを増やすことが主目的になっていて、自分に内在化させるという読み方をしないので、少し読み方を考え直してもよいかとも思った。
さらに、ショウペンハウエルがことさら批判をする「悪書」について彼はこう言っている。
悪書を読まなすぎるということもなく、良書を読みすぎるということもない。悪書は精神の毒薬であり、精神に破滅をもたらす。
良書を読むための条件は、悪書を読まぬことである。人生は短く、時間と力には限りがあるからである。
当時は紙媒体しかなかったことを考えると「書物」というのはいわゆる「ニュースソース」全般であると考えて間違いないだろう。つまり、自分が取り入れる「ニュースソース」には責任を持って取捨選択せよ、と言っているだ。
溜飲を下げるために差別的な言説にハマってしまう中高年ネトウヨや、極端な例で言えば相模原事件の植松被告のように、触れるソースで人間はコロッと思想信条を染められてしまうのである。だから僕は口に入れるものと同じくらい読み聞きするニュースソースについて神経質であろうと思う。
さらにショウペンハウエルは現代日本のSNSやウェブ媒体の将来を見通していたかのような鋭い指摘を投げかけている。
このような匿名評論家は、厚顔無恥なふるまいをいろいろ見せてくれるが、なかでも滑稽なのは、国王のように一人称複数の「我々は」という形式で発言することである。
まさに自称愛国者の言説の「クセ」を見事に喝破していて面白い。いつの時代にも「勝手に代表者」はいるものなのね。
最後に権益層のみなさまに素敵な諫言をひとつ。
無知は富と結びついて初めて人間の品位をおとす。