ろぐの垂れ流し

LOVE定額の相手に着信拒否されたことあるか?!

千葉の台風被害のなか、停電の夜に思ったこと

  末尾に貼り付けてある画像はツィッターで見つけた投稿です。これそのものには・・・酷すぎて私から何かコメントすることもないのですけども、とても類型的なサンプルなので今回の問題提起に使わせてもらっています。程度の差こそあれ私の周囲にも基本的思考回路はこの画像の投稿主と変わらない人がたくさんいるなということを今回の台風15号で改めて認識したのです。東電や自治体を叩くことで首相官邸を擁護し、立場論や手続き論やマニュアルから思考が一歩も前に進まない人たち。その延長線上には自己責任論・自助努力礼賛が出てきて切り捨てや排除の理論につながることを想像できない(・・・少なくとも自分がレイシストの芽を内包しているという自覚はない)人たち。気の弱さとか、なにがしらの人の良さのおかけで、なんとか社会の人間関係に踏みとどまれている人たち。
 そんな彼ら(そう何故か殆どが男)に一点の違和感が拭いきれません。彼らは、どうも自分たちのことをマジョリティだと認識しているらしいこと。もしくはマジョリティ風に振舞っていると言うべきでしょうか。生きづらい、しんどいはずの当人たちが、「マジョリティ」の資格を獲得するために虚構のマウントポジションを取り、異なるクラスタ(彼らが勝手に線引をしている対岸)を攻撃しているように見えるのです。言葉は悪いのですが、分不相応に「自分を格上げしている」ように映っていまして。言い方を変えればエスタブリッシュメントでもないのにそれっぽく振る舞っている・・・会社やビルや億レベルの証券資産を持っているわけでもないのに。その態度は白井聡

「○○が私より知的に見えるのは、知的なふりをしているからである」という思考において、「○○が私より知的に優れているから」という可能性が、あらかじめ排除される。

(p69、日本の反知性主義晶文社

 と描写した恣意性や独善性と同質の肌触りがします。

 
 また、桜井哲夫

自分の行動を倫理的に抑制する規範が内面になく、あくまでも外部の国家によって正当化されなければならないという論理は、逆に言えば、国家の活動と私的な活動の区別がなされず、境界があいまいなまま、私的利害が無制限に国家の活動のなかに侵入するという結果をもたらした。

(p63、<自己責任>とは何か、講談社現代新書

と説いていて、これは支配者から民衆への侵襲だけども、逆に民衆側が喜んで「国家の活動と私的な活動」の境界を曖昧にしようとしているということも往々にして起こっていることなのだと感じています。そこからは彼らに『自分の行動を倫理的に抑制する規範』が十分に自己内面化できていないということは導けるのですけども、それにしてもあの幼稚で支離滅裂な「アベ的な何か」に自己を溶解させる動機にはもう少しアイデンティティ寄りの欠落が何かあるような気がしているんです。ある調査で自己有能感の高い人(俺はデキる、何でも知っている、と自覚している人)でも、自己肯定感(自分のことは好きだし生きてていいと思っている)が自己有能感を超えない人間はいて、つまりそういう人は有能である自分しか肯定できないんです。条件付き肯定なのですよね。簡単に言えば「負け方を知らない挫折下手」。
 
 宮台真司が「言葉の自動機械」と呼ぶ感情の劣化した人間が量産された背景として説明に使う「大きな物語の喪失」。それは戦後復興の達成と経済成長モデルの終焉、近代史的伝統的家族観の崩壊と性愛の不成就・・・なのだと僕は捉えているのですが、その局面に差し掛かったとき、彼らの前には非常に戦略的に「安っぽいナショナリズムとそれを謳うアベ的な何か」がアフォーダンスされていたんです。条件付き自己肯定のために、つまり自我のメンテナンスのために彼らはそれに飛びつきました。ジャーナリスト白河桃子とタレント・エッセイストの小島慶子の対談を紹介します。
白河 男性たち自身が、立場がすべてで、人間扱いされてないからというのもあるでしょうね。そして男性には、相手がお金や地位を目当てに寄ってきても、自分がモテていると解釈できる、都合のいい脳がある。前野隆司先生が言うところの、「地位財」的な幸せで生きているから。なぜそれで男の人は満足できるのか、すごく不思議。
小島 肩書きと生身が一体化してしまっていて、境目がわかっていないんでしょうね。
白河 身体性がないのかな。
小島 身体性の欠如と、自分が何者なのか悩む必要はなかったというのがあるんじゃないでしょうか。悩む習慣がなかったというか。
(p171、さよなら! ハラスメント、晶文社

 

 彼らは、「立場」を失って、もしくは自分が想定して獲得に向けて努力していた「立場」が手に入らず、いざ自分が何者かを問い直さないといけない時に、悩む習慣を身に付けていなかったがために新しい「物語」の中に自分を捉え直するための苦しい作業に向かい合えず、ローコストで使いやすい差別的なイデオロギーの方を手にとってしまったのです。何かしらの政治的理想を実現するためではなく、失った立場の代替品を手に入れるために。
 
 さて、マイケル・サンデルが興味深いことを言っています。

人生を生きるのは、ある程度のまとまりと首尾一貫性を指向する探求の物語を演じることだ。分かれ道に差しかかれば、どちらの道が自分の人生全体と自分の関心事にとって意味があるかを見きわめようとする。道徳的熟慮とは、自らの意思を実現することだけではなく、自らの人生の物語を解釈することだ。そこには選択が含まれるが、選択とはそうした解釈から生まれるもので、意思が支配する行為ではない。目の前の道のどれが私の人生の山場に最も適しているか、私自身よ他人の目にはっきり見えることも、時にはあるかもしれない。反省してみると、私自身より友人のほうが、私についてよく知っていると言えるかもしれない。道徳的行為の物語的説明には、そうした可能性を含められるという利点がある。(中略)私が自分の人生の物語を理解できるのは、自分が登場する物語を受け入れるときだけである。マッキンタイアにとって(アリストテレスと同様に)、道徳的省察の物語的あるいは目的論的側面は、成員の立場と帰属に結びついている。

(p348、これからの「正義」の話をしよう、ハヤカワ文庫)

 これは彼が「忠誠のジレンマ」について論を進めていく後半に出てくる主張で、原理主義的政治思想もリベラリズムも不完全と批判した上で、決定的ではないとはしながらも彼が可能性を見出しているコミュニタリアニズムのエッセンスが比較的わかりやすく書かれている部分だと思います。続いて彼はこう締めくくります。
その道徳的な重みの源は、位置ある自己をめぐる道徳的省察であり、私の人生の物語と関わりがあるという認識なのである。
(p353、これからの「正義」の話をしよう、ハヤカワ文庫) 
 
 まとめると、「アベ的な何か」を信仰する彼らは、①まとまりと首尾一貫性を指向する探求の物語から自責・他責を問わず様々な理由でドロップアウトし、②新たな物語の中に自己を捉え直すことを手伝える他者との関わりに恵まれず、③位置ある自己をめぐる道徳的省察の努力と人生の物語においての自己応力感が足りなかった人々、だと僕は見ているということです。個別具体的な政策への支持、不支持に関わらず、僕は彼らのペルソナについてもたいして変わらない原理でドライブされているのだろうなと判断しています。なぜなら、そこに至るまでの経緯が上述の説明にあるような内発的なものであるからです。
 ひるがえって彼らは、社会やコミュニティーとの関わりにおいて他者の人生の物語を捉えることができません。そもそも物語を放棄しているからです。したがって、彼らの主張の先に分断や差別の横行、人権の抑圧があったとしても(それらはすでに起こっていることであるのですが)、物語の登場人物に想像力が働かないのです。彼らの言説が非常に無責任で軽いものである理由はそこにあります。SNSでは困った友人に優しい言葉をかけることはできるけども、多少の規模と複雑性を持ったシステムに向かっては驚くほど冷酷な弱者切り捨ての理論を振りかざす。さらに彼らの言説が理論的ではないのは、統合的な「善き生」のための「物語」が紡ぐものではないからです。「自分自身を自由で独立した自己として理解し、みずから選ばなかった道徳的束縛にはとらわれない」というリベラリズムの文法を用いて連帯と歴史的記憶(侵略戦争慰安婦、徴用工など)を恣意的に取捨選択しながら、本来、リベラリズムが批判するべき階層や階級、身分や地位、習慣、伝統、世襲した地位などによって定まる運命に人間を委ねる政治に支持を示している支離滅裂さも同じところから来ているのでしょう。
 
 僕は争いや対立は望みません。政治は偉い人がうまくやっていてくれればいいと思っています。政治的議論も面倒くさい。だけど、家族と慎ましい暮らしを守るために「程よいそこそこの『アベ的な何か』の支持」というのは有り得ないと考えています。
 「アベ的な何か」信仰者の皆様が体制寄りの主張を張って、たった今は気持ちの良いマウントポジションを取っていられるとしても、「アベ的な何か」はあなたのことなんか一切気にもしていないし、「いざという時」には真っ先に信仰者であるあなたの自由や尊厳を奪いに来るということをわかって欲しいのです。
 
 だから、僕はあなた達を批判し続けます。

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ついった