読むのにとっても時間がかかった。理由は、この本は学術書や実用書の類ではなく、「面白いノンフィクション、ルポタージュ」の体裁だから。
いつものようにビジネス書を読んでいる時ならば、マーカーと付箋を片手に「読み返した時に拾うところ」を残していく感覚で読み進めるのだけども、今回は実に時間がかかった。エキサイティングな小説を読んでいるように活字を追ったし、適度に難解なので読み返すこともしばしば。
読書感としては「フラット化する世界」(トーマス・フリードマン)とよく似ている。ジャーナリスト特有の時折ユーモアや皮肉を交えた饒舌な筆致。貨幣価値に交換可能な尺度ばかりに注目すると本来的な幸福観を歪めたり見失ってしまうぞ、というのはマイケル・サンデルを始め、「父が娘に語る 美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話。」(ヤニス・バルファキス)でも語られていることであるが、本書はより統計官のジレンマや苦労に寄り添ったものになっている。そして、全体的に「経済学者」と「金融業」に対する批判が漂っていて。
まとめると、
①GDPの測定対象になっているものも、正確に計れていない。
②GDP測定対象になっていないものも相当ある。
③絶対視されているGDPが映す世界とリアルはかなりの乖離がある。そもそも「経済」という概念がリアルではない。
④より良い代替指標も無いので、様々な指標を用いて補完し合うべき。
という事のよう。
そして、経済成長万歳という手放しな姿勢には疑念をぶつけながらも「FACTFULNESS」(ハンス・ロスリング)にもあるように、低開発国の人々が人間らしい生活を手に入れるための経済成長を否定するべきではないとし、実際にハンス氏のコメントも紹介している。
私が心に残ったのは、指標や統計の設計そのものが恣意的で政治的であるとは言いながらも「測定できないものは管理できない」というドラッカーの言葉を引用しながら、良き統治を目指すのなら良き測定をしなければならないというメッセージだ。まさに政策や意思決定でのdata drivenの重要性と難しさを語っているわけで、正確に測る事も記録に残す事も放棄してしまったように見える我が国は、世界が国民所得3.0に向かおうとしている時に、国民所得1.0の要件を満たしていないのではないかという2週遅れの絶望感を禁じ得ない。
『「より優れた」測定方法ほど、「より優れた」社会を築く力を持っていることを意味する。』(p274)