ろぐの垂れ流し

LOVE定額の相手に着信拒否されたことあるか?!

千葉の台風被害のなか、停電の夜に思ったこと

  末尾に貼り付けてある画像はツィッターで見つけた投稿です。これそのものには・・・酷すぎて私から何かコメントすることもないのですけども、とても類型的なサンプルなので今回の問題提起に使わせてもらっています。程度の差こそあれ私の周囲にも基本的思考回路はこの画像の投稿主と変わらない人がたくさんいるなということを今回の台風15号で改めて認識したのです。東電や自治体を叩くことで首相官邸を擁護し、立場論や手続き論やマニュアルから思考が一歩も前に進まない人たち。その延長線上には自己責任論・自助努力礼賛が出てきて切り捨てや排除の理論につながることを想像できない(・・・少なくとも自分がレイシストの芽を内包しているという自覚はない)人たち。気の弱さとか、なにがしらの人の良さのおかけで、なんとか社会の人間関係に踏みとどまれている人たち。
 そんな彼ら(そう何故か殆どが男)に一点の違和感が拭いきれません。彼らは、どうも自分たちのことをマジョリティだと認識しているらしいこと。もしくはマジョリティ風に振舞っていると言うべきでしょうか。生きづらい、しんどいはずの当人たちが、「マジョリティ」の資格を獲得するために虚構のマウントポジションを取り、異なるクラスタ(彼らが勝手に線引をしている対岸)を攻撃しているように見えるのです。言葉は悪いのですが、分不相応に「自分を格上げしている」ように映っていまして。言い方を変えればエスタブリッシュメントでもないのにそれっぽく振る舞っている・・・会社やビルや億レベルの証券資産を持っているわけでもないのに。その態度は白井聡

「○○が私より知的に見えるのは、知的なふりをしているからである」という思考において、「○○が私より知的に優れているから」という可能性が、あらかじめ排除される。

(p69、日本の反知性主義晶文社

 と描写した恣意性や独善性と同質の肌触りがします。

 
 また、桜井哲夫

自分の行動を倫理的に抑制する規範が内面になく、あくまでも外部の国家によって正当化されなければならないという論理は、逆に言えば、国家の活動と私的な活動の区別がなされず、境界があいまいなまま、私的利害が無制限に国家の活動のなかに侵入するという結果をもたらした。

(p63、<自己責任>とは何か、講談社現代新書

と説いていて、これは支配者から民衆への侵襲だけども、逆に民衆側が喜んで「国家の活動と私的な活動」の境界を曖昧にしようとしているということも往々にして起こっていることなのだと感じています。そこからは彼らに『自分の行動を倫理的に抑制する規範』が十分に自己内面化できていないということは導けるのですけども、それにしてもあの幼稚で支離滅裂な「アベ的な何か」に自己を溶解させる動機にはもう少しアイデンティティ寄りの欠落が何かあるような気がしているんです。ある調査で自己有能感の高い人(俺はデキる、何でも知っている、と自覚している人)でも、自己肯定感(自分のことは好きだし生きてていいと思っている)が自己有能感を超えない人間はいて、つまりそういう人は有能である自分しか肯定できないんです。条件付き肯定なのですよね。簡単に言えば「負け方を知らない挫折下手」。
 
 宮台真司が「言葉の自動機械」と呼ぶ感情の劣化した人間が量産された背景として説明に使う「大きな物語の喪失」。それは戦後復興の達成と経済成長モデルの終焉、近代史的伝統的家族観の崩壊と性愛の不成就・・・なのだと僕は捉えているのですが、その局面に差し掛かったとき、彼らの前には非常に戦略的に「安っぽいナショナリズムとそれを謳うアベ的な何か」がアフォーダンスされていたんです。条件付き自己肯定のために、つまり自我のメンテナンスのために彼らはそれに飛びつきました。ジャーナリスト白河桃子とタレント・エッセイストの小島慶子の対談を紹介します。
白河 男性たち自身が、立場がすべてで、人間扱いされてないからというのもあるでしょうね。そして男性には、相手がお金や地位を目当てに寄ってきても、自分がモテていると解釈できる、都合のいい脳がある。前野隆司先生が言うところの、「地位財」的な幸せで生きているから。なぜそれで男の人は満足できるのか、すごく不思議。
小島 肩書きと生身が一体化してしまっていて、境目がわかっていないんでしょうね。
白河 身体性がないのかな。
小島 身体性の欠如と、自分が何者なのか悩む必要はなかったというのがあるんじゃないでしょうか。悩む習慣がなかったというか。
(p171、さよなら! ハラスメント、晶文社

 

 彼らは、「立場」を失って、もしくは自分が想定して獲得に向けて努力していた「立場」が手に入らず、いざ自分が何者かを問い直さないといけない時に、悩む習慣を身に付けていなかったがために新しい「物語」の中に自分を捉え直するための苦しい作業に向かい合えず、ローコストで使いやすい差別的なイデオロギーの方を手にとってしまったのです。何かしらの政治的理想を実現するためではなく、失った立場の代替品を手に入れるために。
 
 さて、マイケル・サンデルが興味深いことを言っています。

人生を生きるのは、ある程度のまとまりと首尾一貫性を指向する探求の物語を演じることだ。分かれ道に差しかかれば、どちらの道が自分の人生全体と自分の関心事にとって意味があるかを見きわめようとする。道徳的熟慮とは、自らの意思を実現することだけではなく、自らの人生の物語を解釈することだ。そこには選択が含まれるが、選択とはそうした解釈から生まれるもので、意思が支配する行為ではない。目の前の道のどれが私の人生の山場に最も適しているか、私自身よ他人の目にはっきり見えることも、時にはあるかもしれない。反省してみると、私自身より友人のほうが、私についてよく知っていると言えるかもしれない。道徳的行為の物語的説明には、そうした可能性を含められるという利点がある。(中略)私が自分の人生の物語を理解できるのは、自分が登場する物語を受け入れるときだけである。マッキンタイアにとって(アリストテレスと同様に)、道徳的省察の物語的あるいは目的論的側面は、成員の立場と帰属に結びついている。

(p348、これからの「正義」の話をしよう、ハヤカワ文庫)

 これは彼が「忠誠のジレンマ」について論を進めていく後半に出てくる主張で、原理主義的政治思想もリベラリズムも不完全と批判した上で、決定的ではないとはしながらも彼が可能性を見出しているコミュニタリアニズムのエッセンスが比較的わかりやすく書かれている部分だと思います。続いて彼はこう締めくくります。
その道徳的な重みの源は、位置ある自己をめぐる道徳的省察であり、私の人生の物語と関わりがあるという認識なのである。
(p353、これからの「正義」の話をしよう、ハヤカワ文庫) 
 
 まとめると、「アベ的な何か」を信仰する彼らは、①まとまりと首尾一貫性を指向する探求の物語から自責・他責を問わず様々な理由でドロップアウトし、②新たな物語の中に自己を捉え直すことを手伝える他者との関わりに恵まれず、③位置ある自己をめぐる道徳的省察の努力と人生の物語においての自己応力感が足りなかった人々、だと僕は見ているということです。個別具体的な政策への支持、不支持に関わらず、僕は彼らのペルソナについてもたいして変わらない原理でドライブされているのだろうなと判断しています。なぜなら、そこに至るまでの経緯が上述の説明にあるような内発的なものであるからです。
 ひるがえって彼らは、社会やコミュニティーとの関わりにおいて他者の人生の物語を捉えることができません。そもそも物語を放棄しているからです。したがって、彼らの主張の先に分断や差別の横行、人権の抑圧があったとしても(それらはすでに起こっていることであるのですが)、物語の登場人物に想像力が働かないのです。彼らの言説が非常に無責任で軽いものである理由はそこにあります。SNSでは困った友人に優しい言葉をかけることはできるけども、多少の規模と複雑性を持ったシステムに向かっては驚くほど冷酷な弱者切り捨ての理論を振りかざす。さらに彼らの言説が理論的ではないのは、統合的な「善き生」のための「物語」が紡ぐものではないからです。「自分自身を自由で独立した自己として理解し、みずから選ばなかった道徳的束縛にはとらわれない」というリベラリズムの文法を用いて連帯と歴史的記憶(侵略戦争慰安婦、徴用工など)を恣意的に取捨選択しながら、本来、リベラリズムが批判するべき階層や階級、身分や地位、習慣、伝統、世襲した地位などによって定まる運命に人間を委ねる政治に支持を示している支離滅裂さも同じところから来ているのでしょう。
 
 僕は争いや対立は望みません。政治は偉い人がうまくやっていてくれればいいと思っています。政治的議論も面倒くさい。だけど、家族と慎ましい暮らしを守るために「程よいそこそこの『アベ的な何か』の支持」というのは有り得ないと考えています。
 「アベ的な何か」信仰者の皆様が体制寄りの主張を張って、たった今は気持ちの良いマウントポジションを取っていられるとしても、「アベ的な何か」はあなたのことなんか一切気にもしていないし、「いざという時」には真っ先に信仰者であるあなたの自由や尊厳を奪いに来るということをわかって欲しいのです。
 
 だから、僕はあなた達を批判し続けます。

f:id:upaneguinho:20190916220842j:plain

ついった

デビルサマナー

f:id:upaneguinho:20190603102113j:image

品川駅始発の千葉行きに運良く座れた。ただ、自分の気持ちは甚だ不愉快。

電車に乗り込む時に、前の松葉杖の男性がつまずかないようにスペースを空けてゆっくり歩いていたのだが、そこに後ろからぬるぬるっと割り込んできた50代のビジネスマンがいた。骸骨のような輪郭の黒縁メガネ。擦り切れた黒いノースフェイスのリュックを使っていたので、ぼくは彼のビジネスマンとしてのスペックをそこそこに見切った。僕にとって不運な事は、ガムを噛んでいるそのシャレコウベがとなりに座ってしまったことだ。気持ち悪い。おおっぴらに悪事を働く度胸はないが、自分が安全圏にいれば人を陥れるタイプ。

そして反対側は俺物語!!のような顔をしたガタイのいいブラウンのスーツ。スペース的にはシャレコウベとでプラマイゼロだが、こめかみに汗を垂らしている鈴木亮平は、足をぱっかーん!と広げている。股関節の調子が良くない人なんだろう。それにしても自分の2本分くらいあるぶっとい太もも。柔道やってたんだろうな。だけど、柔道やってた股関節の筋力あれば、その膝は閉じられるよな?!僕が座る時に、一旦中腰になって「座るからね」サインを出しているのに無視して、僕が座った後に迷惑そうに僕の尻の下から自分のジャケットの裾を引っ張り出し、そして弛緩、ぬるっと膝を広げてきた鈴木亮平に僕の大嫌いな「体育会系的不遜さ」を感じた。

そんな両者に挟まれて、それはもう生理的なレベルでの不快感に襲われ、読みかけの本を広げる気にもなれない。

と、ドタドタッという足音ともに、男性の「おい!大丈夫か?」という声。「ここにしっかり掴まって!」声の方に目を向けると、オシャレだけど浮ついてない印象のカジュアルに身を包んだ二人の男性に両側から支えられて、うつむいている茶髪の女性がいた。

ひどい酔い方をしているみたい。

時間的に出来上がるのが相当早いな、とも思ったけど、なんとなく雰囲気的に飲食店関係で働いている人たちのような感じがした。飲み始めの時間が早かったのだろう。なにかの打ち上げかしら。

「おい!立てるか?」「どっか席空いてないの?」二人の男性。その時、酔っ払いの女性が酷く辛そうな顔を上げた。目は開いてない。僕はフェミニストだけど、あえて言おう、不細工なぽっちゃりちゃんだ。しかも酷く酔った。

今にも戻しそうな微妙なアクションをしているぽっちゃりちゃんを、男性二人は明らかに持て余していた。彼らが乗りたい電車は違うらしい。手を離せばそのまま崩れ落ちそうなほどぽっちゃりちゃんは足に力が入っていない。だけどあと数分で、品川駅始発のその電車は出発してしまう。

この時、僕は純粋に悪意で人助けをすることにした。介抱している二人の男性の背の高い方の黒キャップにアイコンタクトして、グーに立てた親指で僕の背後を指すと、ぽっちゃりちゃんに席を譲った。

もちろん、両側のシャレコウベと鈴木亮平はドン引き。えー!俺らの平和な通勤時間は?的な。

黒キャップはかなりきちんとした言葉遣いで僕に礼を言いながら二人掛かりでぽっちゃりちゃんをぼくの座っていた席まで運搬していった。お礼の言葉に対して、僕の中にこれっぽっちの善意も無いことを自覚したのと、黒キャップの爽やかな態度も連れのルックスによってはチャンス到来のオスに変わるんだろうなという想像から、普段は滅多に使わない皮肉な笑顔で応えた。

自分はできるだけぽっちゃりちゃんから距離を離したところでつり革に捕まり、ドン引きのシャレコウベと鈴木亮平の間で小刻みに揺れているぽっちゃりちゃんをちらりと見やって、心の中で独りごちた。

「どっちかの膝の上に吐いたら、楽になるのに」

僕もたまには真っ黒な動機で悪魔を召喚する。

余談だけど、僕は「デビルサマナー(悪魔召喚士)」と呼ばれている悪名高い合コン女子幹事を知っているが、その子は可愛いし、個人的に飲めば楽しい人だ。

『幻想の経済成長』デイヴィッド ピリング

f:id:upaneguinho:20190603101714j:image

読むのにとっても時間がかかった。理由は、この本は学術書や実用書の類ではなく、「面白いノンフィクション、ルポタージュ」の体裁だから。

いつものようにビジネス書を読んでいる時ならば、マーカーと付箋を片手に「読み返した時に拾うところ」を残していく感覚で読み進めるのだけども、今回は実に時間がかかった。エキサイティングな小説を読んでいるように活字を追ったし、適度に難解なので読み返すこともしばしば。

読書感としては「フラット化する世界」(トーマス・フリードマン)とよく似ている。ジャーナリスト特有の時折ユーモアや皮肉を交えた饒舌な筆致。貨幣価値に交換可能な尺度ばかりに注目すると本来的な幸福観を歪めたり見失ってしまうぞ、というのはマイケル・サンデルを始め、「父が娘に語る 美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話。」(ヤニス・バルファキス)でも語られていることであるが、本書はより統計官のジレンマや苦労に寄り添ったものになっている。そして、全体的に「経済学者」と「金融業」に対する批判が漂っていて。

まとめると、
GDPの測定対象になっているものも、正確に計れていない。
GDP測定対象になっていないものも相当ある。
③絶対視されているGDPが映す世界とリアルはかなりの乖離がある。そもそも「経済」という概念がリアルではない。
④より良い代替指標も無いので、様々な指標を用いて補完し合うべき。
という事のよう。

そして、経済成長万歳という手放しな姿勢には疑念をぶつけながらも「FACTFULNESS」(ハンス・ロスリング)にもあるように、低開発国の人々が人間らしい生活を手に入れるための経済成長を否定するべきではないとし、実際にハンス氏のコメントも紹介している。

私が心に残ったのは、指標や統計の設計そのものが恣意的で政治的であるとは言いながらも「測定できないものは管理できない」というドラッカーの言葉を引用しながら、良き統治を目指すのなら良き測定をしなければならないというメッセージだ。まさに政策や意思決定でのdata drivenの重要性と難しさを語っているわけで、正確に測る事も記録に残す事も放棄してしまったように見える我が国は、世界が国民所得3.0に向かおうとしている時に、国民所得1.0の要件を満たしていないのではないかという2週遅れの絶望感を禁じ得ない。

『「より優れた」測定方法ほど、「より優れた」社会を築く力を持っていることを意味する。』(p274)

女性の名前はなぜ赤色で印刷されるのか問題

f:id:upaneguinho:20190603101533j:image

ある程度の規模の企業には「組織図」というものがあるのが一般的だと思うのですが、あれに男女の性別を色や記号で区別してあるのが気持ち悪いのです。

私が勤めている業界というのは残念ながら女性進出については日本の平均もしくはそれ以下の環境なので、必然的に組織図の下の方に赤い文字で書かれた名前や女性を示す記号が固まるわけです。

なんなら、雇用形態まで分かりやすくしてあるわけですよ。横串に階層で並べてあって、下の方の欄外に派遣社員やパートの方の名前が記載されているといった風に。

これってとても露骨に、身内である社員向けに発してるメッセージであるわけです。「我が社は性差および雇用形態を社内における序列決定の重要な尺度としています」と。

建築家のルイス・サリヴァンは「形態は機能に従う」という有名な言葉を残していますが、企業組織もそうあるべきだと考えています。私の経験では、業務上、協働する人たちの性別や雇用形態が重要なファクターであったことは全くといっていいほどありません。

そんなことよりも、会話をした時にフワッと匂ってくるアホ臭だったり、身だしなみだったり、パソコンのデスクトップの様子だったりの方がよっぽどその人の能力や仕事のやりやすさと相関が強いと思っています(これについては私個人との相性の問題が大きいので、客観的な基準とは話を分けてください)。

「これだから日本人は」という論を展開するつもりはありません。実は、女性からきり出す離婚を法的に認めたのはキリスト教圏の国々より日本は早かったし、歴史的に世界の国々の中で特に男尊女卑が酷かったというわけではありません。ただ、第二次世界大戦後に世の中で進んだ男女平等化の流れに日本だけは相対的に遅れをとっていたようなのです。

社会・経済の色々な事情もふまえ、日本人に合った得意の戦法を採るにあたり、家父長的価値観を温存し、企業組織に持ち込んだというのは当時必然であったといえるでしょう。国レベルで起こったヒエラルキー崩壊の代替品とまでは言いませんが、戦後の日本人の寄る辺として家父長的価値観を持つ職場は必要だったのです。特に男に。なぜならもともとモノカルチャーだったから。

私個人はマッチョや体育会系やヤンキーといった価値観から距離を置きたいので、いわゆる「頑固で怒ると怖いけど頼りになるオヤジ」と一緒に仕事をしたいとは思わないのですが、自然科学や宗教上のバックボーンから日本人は「人間性」の外に絶対的な「基準」を持ち得ない民族なので、マトリョーシカのような構造の「家」を社会の構成要素とするのは自然なことだとも思っています。それは、優れているとか劣っているとかそういうことではなくて、日本人の行き方なので、そういうもんだと考えるほかありません。慣れないことをやるのは疲れますしね。

ただ、日本人が主戦場としている市場経済に、ニホンジン・プロトコルが不整合を起こしているのも事実です。それもしゃーない。直近のこのターンでは日本人がルールメイカーじゃなかったから。

だけど、せめて技術的な部分でもいいから、学んで変えていく努力はした方がいいですよね。組織図は白黒で印刷すればコストも下がりますから。その上で、安易なカテゴライズに依らず、人を人として見つめ、働き手としての「個人」の像を捉えていく訓練はおいおいしていけばいい。まずは形からでも始めましょうよ。

それと、おっさんが下駄を脱がされるのはもう時代の宿命だと思って覚悟を決めましょう。「マウントおじさん」と陰口を叩かれていることをよそから聞くのは、自分の身の丈を受け入れるよりもよっぽど辛いことですよ。

『DINER』平山夢明

f:id:upaneguinho:20190603085814j:image

昔、ノーパンしゃぶしゃぶというのが流行ったと聞く。自分には絶対に楽しめない業態だ。なぜなら僕には食欲と性欲を一緒に満たすことは出来ないから。それら欲求の対象が同時に目の前に並んでいれば、先に気持ちの悪さを感じるだろう。仕方がない、そういう趣向の人間だから。

 


『ソドムの市』『ピンクフラミンゴ』は一生観ない映画だろうと想像する。

 


さて、友人の銀塩女子に勧められたこの小説だが、同じお皿に、美食に暴力と残酷描写が盛り付けられている。薬味的にエロも。

読書感で言えばカロリーも脂質も塩分もたっぷり。朝、通勤中に読むと、市民的な精神に自分を戻すのに少し時間がかかるキ○○イ小説。

 


配分としては暴力>食>セックスなんだけど、描写に色付けせずに同列に扱ってるようで、饒舌な料理と食べることの描写に対して、「例えばこんな拷問のやり方が・・・」で始まる陰惨描写の字数の多いこと!決して筆が走ってる勢いもなく。気持ち悪いけど、本当に上手。過去の著作の引き出しが存分に活かされていて、少し控えめな筆致で淡々と殺し方、死に方の説明がある。かたや暴力シーン、格闘・銃撃シーンの破綻気味の勢いとスピードのインパクトは強く、暴力・残酷のところでもコントラストを作ってるのが素晴らしい。

 


変態グロ小説に片足を突っ込みながら、なぜこのワンプレートの盛り付けを自分は受け入れられたのか。

 


ひとえに、敢えて散りばめられた品と知性だと思う。ヒロインのオオバカナコは設定上、お馬鹿なオツムの足りない子のキャラだが、追い詰められながらも生き延びることへの執念と知性を発揮しながら殺人者たちと渡り合っていく。その真摯さが小説のまとまりに一役買っている。舞台がダイナーという設定も本当に上手い。オールドアメリカンの内装の素っ気なさと殺人者たちの食事シーンとの相性の良さ、登場人物たちの無国籍さを包摂するタランティーノを引用したイメージのしやすさ。しかも作者はダイナーという業態の調度や供される料理のことも酒のことも非常に深い造詣を持って描いている。そこらの食レポブロガーに爪の垢を煎じて飲ませたいくらい。ここはオーベルジュか、という皮肉を登場人物に言わせるくらい、分かってる人への目配せが憎い。自分には突飛な殺人道具や仕込みなんかよりもよっぽど魅力的な要素だった。

 


最初は、続けて読むのが辛かった。毎日の通勤で少しずつ読み進める。

 


ところが、読後感の爽やかなこと。

 


恐ろしい。いつのまにか慣れちゃってたよ、この血まみれの狂気の世界に。

 

教育投資について

仕事帰りの電車で隣になった女性二人が、かなり真剣に話し込んでいた。子供の進学と学費の話みたい。

 

「私、暮らしていくなら旦那の収入で十分だけど、子供の学費のために働いているようなものよ。」
「私立に行かせる学費よりも、予備校の方が高く付くらしいわよ!」
 
僕とそんなに歳の変わらない印象のお二人、随分と大きなお子さんをお持ちなのか、相当に計画的なのか。
 
僕は、人生のかなり場面で学歴に助けられた自覚がある。だけど僕は学歴ポジショントークはしないし、人にどこの出身か聞くことは決してない。でも、学歴コンプレックスで自分のこと攻撃してるのだろうなという人にもたくさん会った。あくまで邪推だけども。そんな時、自分の母校が数ある地方国立大の一つという事実もそんな時の憂鬱な気持ちに拍車をかける。優秀な教授陣を抱えた素晴らしい大学であることを強く前置きして、略称を発音すると信州や駅伝強いぞに負けるネームバリューでしかない実情と周囲の反応とのギャップに戸惑う。近所に京大や阪大があるし。ま、要するに彼ら彼女らは大学のことをよく知らないのだろう。
話が少しズレたが、僕は母校のおかげで今まで食えてきてるし、家族を持てたと感謝している。だけど、これからの時代の日本の高等教育には懐疑的だ。
何故なら、産業や雇用環境の変化が早すぎて、高等教育のプログラムが働き手に求められているイシューをリードできないだろうから。学び直しや生涯学習に対する啓蒙それ自体が、1回きりの高等教育で身につけられるエンプロイアビリティ(employability)の限界を示唆している。

 

『「学力」の経済学』(著 中室牧子)によれば自分の子供に対する教育投資はあらゆる投資の中でもリターンが大きいのだそう。
『欲望の資本主義』でスティグリッツ教授は世界経済に大きな影響を与えているアイディアを創出しているのは大学セクターだと言っている。
私自身も国家戦略として日本における教育への公的支出の比率の低さに懸念を禁じ得ない。

 

とは言え、高等教育というものは経済的な目的のために借金(リスク)背負ってまで受けないといけないものなのだろうか。
親は、子供に生身の躾や教育を授ける時間を削ってまで働いて、教育費を稼がないといけないものだろうか。
僕は、自分の娘には、野菜や魚の旬や献立の当たり前の知識やだったり、土いじりの仕方や山菜の見分け方の技術だったり、ご近所にお裾分けをもらえる社交性や礼儀だったり、過剰な消費に追い立てられない足るを知る分別だったり、お上から社会福祉を引っ張れる知恵と図々しさを学んで身につけてほしいと思っている。
子供に高い教育を受けさせたい親の気持ちを否定するものではないけども、経済のトレンドである「不確実性」や「予測不可能性」を十分に織り込んだ「レール」を敷いてあげたいと思うことが恐ろしく矛盾を孕んだ事であるということは認識しておいた方が良いと思うのだ。

 

「学力」の経済学

「学力」の経済学

 

 

 

欲望の資本主義

欲望の資本主義

 

 

 

危機とサバイバル――21世紀を生き抜くための〈7つの原則〉

危機とサバイバル――21世紀を生き抜くための〈7つの原則〉

 

 

 

知的生産術

知的生産術

 

 

 

里山資本主義 日本経済は「安心の原理」で動く (角川oneテーマ21)

里山資本主義 日本経済は「安心の原理」で動く (角川oneテーマ21)

 

 

電車の中で中吊り広告よりも興味深いもの 『悲しきアメリカ―その真の様相』Michel Floquet

 先程、ホームへ上がる階段を駆け登り快速に飛び乗ってきた白髪混じりの、おそらく60手前のビジネスマンがいました。なんだか「アがった」感満載の彼、はぁはぁ言いながら白目剥いて立ったまま寝だします。最初は寝てるとは分からずに、気味の悪いその白目の半目が心臓発作の前兆じゃないかと気が気でなかった僕は彼から目が離せません。胸には一冊のハードカバーを抱えていました。

 

悲しきアメリカ――その真の様相

悲しきアメリカ――その真の様相

 

 

 早速タイトルで検索。リードはこんなものでした。

一方には、自由、シリコンバレー、グーグル、フェイスブックウォール街、ハリウッド、機会均等の国のアメリカという神話がある。他方には、フランス人ジャーナリストのミシェル・フロケが5年間の現地調査で伝えるもう一つのアメリカがある。そこでは国家予算の半分が軍事費で、子供の4人に1人が貧困により公費の給食を受け、総人口比で世界最大数の受刑者がいて、毎日、全国で30人以上が銃火器で死亡する。大学の授業料は年額4万ドルで、課税率は最富裕者には15%、貧困者には25-30%。二大政党のみが支配する民主主義制度を維持して政権を分有するために両党は選挙年には70億ドルを使う。

 

 なぬ!めちゃくちゃ面白そうな本読んでんな、おっさん!!
 
 ブクログにログる。まぁ購入するタイミングが来るかどうかは分かりませんが。積ん読も読みかけも数十冊あるので・・・
 
 僕は通勤電車の中で人が読んでる本や新聞の見出しで結構な情報収集をします。ビジネスマンには靴やスーツを教えてもらうし、もちろん美人探しは日課です。
こないだはヤフー知恵袋でずっと離婚と慰謝料のことを調べている男性をしげしげと斜め後ろから見ていました。
 そんなわけで、スマホゲームをやっている人が本当に苦手。自分が興味ないもんだから、全く発見がないからです。周りに対する気遣いができない人は、僕個人の経験則で言えば、日刊ゲンダイ読者よりもモンストユーザーの方が多いんですよね。そこまでいって、みなさんが通勤電車の中で触っているスマートフォンのパネルってパブリックなのかプライベートなのかと考えてみました。電車の中で預金通帳や日記帳を広げる人は滅多にいないでしょう。だけど皆さん、それと同じようなことをスマホでやってますよ。電車の中の全員がイヤホンにスマホで「個」に没入している訳ではありません。僕みたいな人間もいることを認識して、気をつけた方がいいと思います。見られてますよ、まじまじと。
 ちなみに私もスマホが手放せない人間です。スマホを落としたせいで足の爪、割れようともね。

f:id:upaneguinho:20190411105403j:plain

 調べてみると、「1日あたり利用時間:日本人は1日に約3時間利用、 そのうち25%はゲームを利用」だそうです。約45分/日をスマホゲームに使っているらしいですね。
 
 
 なかなかの時間です。1ヶ月で22.5時間ゲームしてるって。
 悪し様に言うつもりはないんです。なんせ通勤時間が長いのが一番の要因ですよね。1ヶ月で22.5時間を東京都の最低賃金でバイトしたら2万2千円ちょいです。家賃を2万2千円上乗せして、どんだけ通勤時間短くなるか、首都圏の労働環境の課題に行き着いたところで最寄駅に着きました。
 
 ほなお疲れ様です。