「○○が私より知的に見えるのは、知的なふりをしているからである」という思考において、「○○が私より知的に優れているから」という可能性が、あらかじめ排除される。
と描写した恣意性や独善性と同質の肌触りがします。
と説いていて、これは支配者から民衆への侵襲だけども、逆に民衆側が喜んで「国家の活動と私的な活動」の境界を曖昧にしようとしているということも往々にして起こっていることなのだと感じています。そこからは彼らに『自分の行動を倫理的に抑制する規範』が十分に自己内面化できていないということは導けるのですけども、それにしてもあの幼稚で支離滅裂な「アベ的な何か」に自己を溶解させる動機にはもう少しアイデンティティ寄りの欠落が何かあるような気がしているんです。ある調査で自己有能感の高い人(俺はデキる、何でも知っている、と自覚している人)でも、自己肯定感(自分のことは好きだし生きてていいと思っている)が自己有能感を超えない人間はいて、つまりそういう人は有能である自分しか肯定できないんです。条件付き肯定なのですよね。簡単に言えば「負け方を知らない挫折下手」。自分の行動を倫理的に抑制する規範が内面になく、あくまでも外部の国家によって正当化されなければならないという論理は、逆に言えば、国家の活動と私的な活動の区別がなされず、境界があいまいなまま、私的利害が無制限に国家の活動のなかに侵入するという結果をもたらした。
(p63、<自己責任>とは何か、講談社現代新書)
白河 男性たち自身が、立場がすべてで、人間扱いされてないからというのもあるでしょうね。そして男性には、相手がお金や地位を目当てに寄ってきても、自分がモテていると解釈できる、都合のいい脳がある。前野隆司先生が言うところの、「地位財」的な幸せで生きているから。なぜそれで男の人は満足できるのか、すごく不思議。小島 肩書きと生身が一体化してしまっていて、境目がわかっていないんでしょうね。白河 身体性がないのかな。小島 身体性の欠如と、自分が何者なのか悩む必要はなかったというのがあるんじゃないでしょうか。悩む習慣がなかったというか。(p171、さよなら! ハラスメント、晶文社)
人生を生きるのは、ある程度のまとまりと首尾一貫性を指向する探求の物語を演じることだ。分かれ道に差しかかれば、どちらの道が自分の人生全体と自分の関心事にとって意味があるかを見きわめようとする。道徳的熟慮とは、自らの意思を実現することだけではなく、自らの人生の物語を解釈することだ。そこには選択が含まれるが、選択とはそうした解釈から生まれるもので、意思が支配する行為ではない。目の前の道のどれが私の人生の山場に最も適しているか、私自身よ他人の目にはっきり見えることも、時にはあるかもしれない。反省してみると、私自身より友人のほうが、私についてよく知っていると言えるかもしれない。道徳的行為の物語的説明には、そうした可能性を含められるという利点がある。(中略)私が自分の人生の物語を理解できるのは、自分が登場する物語を受け入れるときだけである。マッキンタイアにとって(アリストテレスと同様に)、道徳的省察の物語的あるいは目的論的側面は、成員の立場と帰属に結びついている。
(p348、これからの「正義」の話をしよう、ハヤカワ文庫)
その道徳的な重みの源は、位置ある自己をめぐる道徳的省察であり、私の人生の物語と関わりがあるという認識なのである。(p353、これからの「正義」の話をしよう、ハヤカワ文庫)