ろぐの垂れ流し

LOVE定額の相手に着信拒否されたことあるか?!

読書感想『読書について 他二篇』ショウペンハウエル著、岩波新書

f:id:upaneguinho:20200126102809j:plain

『読書について 他二篇』ショウペンハウエル著、岩波新書

 

 著者は1800年代中盤に活躍したドイツ人の哲学者。ニーチェに影響を与え、そしてそのニーチェと相互に刺激しあったと言われている文豪がドストエフスキー。そんな世代の人の書いたもの。内容を簡単に言うと、上から目線のおっさんがずっと怒っている本。批判の対象は、価値の無いテキストの氾濫、簡潔さを至上命題として国語(ドイツ語)をズタズタに改悪する当時の文壇、バズった話題書を追いかける意識低い系読者層、金のために無責任な批評を書く匿名ライター・・・などなどで、あまりに現代的すぎて苦笑いが止まらない。200年近く人間の「書物」に対する態度は紙がデジタルになったところでそないに変わっていないということか。

 

 なんでそんな本を買って読んだのかというと、多読という行為についてたいそう辛辣な考えが綴ってあるから。ちょっと自分の頭のネジを巻きなそうと思って。

読書は思索の代用品にすぎない。  

読書は言ってみれば自分の頭ではなく、他人の頭で考えることである。絶えず読書を続けて行けば、仮借することなく他人の思想が我々の頭脳に流れ込んでくる。ところが少しの隙もないほど完結した体系とはいかなくても、常にまとまった思想を自分で生み出そうとする思索にとって、これほど有害なものはない。 

 読書は、他人にものを考えてもらうことである。本を読む我々は、他人の考えた過程を反復的にたどるにすぎない。習字の練習をする生徒が、先生の鉛筆書きの線をペンでたどるようなものである。だから読書の際には、ものを考える苦労はほとんどない。自分で思索する仕事をやめて読書に移る時、ほっとした気持ちになるのも、そのためである。だが読書にいそしむかぎり、実は我々の頭は他人の思想の運動場にすぎない。 

 もう身も蓋もない。

 彼自身が哲学者であり著作家であるという前提を割り引いて考えても、私が考えていた「勉強家」の姿を「アホなコピペ野郎」と断じている訳で。

ただ、定評ある専門の大家による著作、長い時間の評価にさらされ生き抜いた古典を読むべき、という考え方はビジネス会の読書クレイジー出口治明氏(ライフネット生命会長)の考えと同じであるし、「本は2度読め」というのは『知的生産の技術』で梅棹忠夫氏で書いてあることと同じであることを踏まえると、この本の中身は世の中の普通の読み手に対しても言えることなのかしら。自分はあとで引けるリファレンスを増やすことが主目的になっていて、自分に内在化させるという読み方をしないので、少し読み方を考え直してもよいかとも思った。

 

 さらに、ショウペンハウエルがことさら批判をする「悪書」について彼はこう言っている。

 悪書を読まなすぎるということもなく、良書を読みすぎるということもない。悪書は精神の毒薬であり、精神に破滅をもたらす。
 良書を読むための条件は、悪書を読まぬことである。人生は短く、時間と力には限りがあるからである。 

 

 当時は紙媒体しかなかったことを考えると「書物」というのはいわゆる「ニュースソース」全般であると考えて間違いないだろう。つまり、自分が取り入れる「ニュースソース」には責任を持って取捨選択せよ、と言っているだ。

 溜飲を下げるために差別的な言説にハマってしまう中高年ネトウヨや、極端な例で言えば相模原事件の植松被告のように、触れるソースで人間はコロッと思想信条を染められてしまうのである。だから僕は口に入れるものと同じくらい読み聞きするニュースソースについて神経質であろうと思う。

 

 さらにショウペンハウエルは現代日本SNSやウェブ媒体の将来を見通していたかのような鋭い指摘を投げかけている。

このような匿名評論家は、厚顔無恥なふるまいをいろいろ見せてくれるが、なかでも滑稽なのは、国王のように一人称複数の「我々は」という形式で発言することである。

 まさに自称愛国者の言説の「クセ」を見事に喝破していて面白い。いつの時代にも「勝手に代表者」はいるものなのね。

 

 

最後に権益層のみなさまに素敵な諫言をひとつ。

無知は富と結びついて初めて人間の品位をおとす。

 

読書感想『それからはスープのことばかり考えて暮らした』吉田 篤弘

f:id:upaneguinho:20191227191847j:image

優しくて可愛らしい手触りの話だ。


全体的に毒気がほとんど感じられないファンタジーのような東京下町の人情話。同じような料理の温かさ、同じような人情味がトッピングされても江國香織だともうすこし愛憎というかスパイスが強くなると思う。


この本に出てくるサンドイッチもスープもラーメンも登場人物の人柄を表すように優しくてふくよかで美味しそう。だけども料理や料理方法に関する描写はあえてフワッとさせていてテクニカルな方には決して筆を進めない。あくまで優しいゆったりとした筆致に統一された描写。それでもやっぱり料理は大事なウエイトを占めるアイテムなのでその「書かなさ加減」は絶妙と言える。


主人公の青年は飄飄というかのんびりした映画好きの好青年だけども、なんかの小説に出てくるレコード屋バイトのジャズ好き、コーヒー好きの大学生よりよっぽど僕にとっては好感度が高い。


この小説にはごっそりと若い女性の登場人物が削られている。実世界の人物としての話だけど。それが郷愁や喪失感を上手に醸し出していて大胆だけど面白い設定だと思う。


それに何より、キーマンになる女性二人がなんとも魅力的。確かに若くはないのだけど、美人の書き方が凄く上手ですよ。

ゆるく生きるために熱く戦う---寛容と強さ

f:id:upaneguinho:20190328002900j:plain

 本を読みながら、引いてある文献に安い中古が有ればどれこれ構わずオンラインで買ってしまうので、週に数冊の本が届きます。
 最近、写真にある本が届きました。だけども、森嶋通夫さんのことは知らないし、何が気になって買ったのかも思い出せない。ただ、最近で日本人の本が届いたというところからおそらく出口治明氏の本を読んでるときに買ったのではないかと思われます。
 表装もない、またいい感じの古本ですよ。
 初版が1977年の新書版とはいえ当時新品で280円という価格表示に時代を感じます。
 読んでみるとこれがまた面白い。この本に書かれている先入観のままのイギリス人観しか持ち合わせていなかったことに気付かされ、古さを感じさせない刺激と学びの多い本です。
 まだ半分も読んでいませんが、引用した一説は痛快だったなぁ。
 「イギリス人がナチズムに対して頑強に戦ったのは、寛容な社会を保存するためであった」し、国民は戦争に対して冷ややかな態度も持っていました。翻って、国民が一丸となって熱狂したところで戦争には勝てないということです。日本がそうだったのですから。
 本当に身につまされる話ですし、近頃の日本のキナ臭い空気を見るにつけ、歴史に学ばず一体なんのノスタルジーに浸ってるんだと怒りを感じます。批判を恐れず言いますが、僕は「坂の上の雲」症候群が大嫌いなんです。

さて、フランクリン・D・ルーズベルトはこう言っています。

人の優しさが自由な国民の精力を弱めたり、その性質を軟弱にしたという例は決してない。国家は頑強であるために、なにも冷酷である必要はない。

 

 卑近な話に置き換えれば、スポーツに強くなるためにシゴキが必要なわけではないですし、行儀の良い子供を育てるのに体罰は必要ありません。経営を強くするためにオラオラマネジメントが必要なわけじゃないですし、国が強くなることと右傾化することは同じではありません。

以下、引用です。

 もう一度、戦争中の話にもどりますが、タイムズには「二十五年前」という欄があり、二十五年前のその日のタイムズの記事のうち面白い記事を抜粋しています。数年前には、二十五年前は戦争中でしたが、その中に次のような記事がありました。「次の週末には、おそらく敵の空襲があるだろう。したがってもし皆さんが外出される場合には、帰りの汽車が不通であるかもしれないということを勘定にいれて、どうぞご外出ください。」だから当時の日本人から見て非国民的に行動していたのは単に労働者だけではなく、イギリス人全体が多かれ少なかれそうだったと思います。
 イギリス人がナチズムに対して頑強に戦ったのは、寛容な社会を保存するためであって、したがって、戦争中につくられた戦意高揚映画の多くは、ナチス国家との対比で英国における自由を非常に強調しております。それゆえ多くの映画で、ドイツ人は非常に規律正しく、イギリス人はむしろだらけたようにえがかれております。

『イギリスと日本』森嶋通夫 著、岩波新書、1977年

 

『ジョーカー / JOKER』(アメリカ 2019) 映画感想

『ジョーカー / JOKER』(アメリカ 2019)

 

f:id:upaneguinho:20191014100438j:plain

監督: トッド・フィリップス
出演: ホアキン・フェニックス  アーサー・フレック
    ロバート・デ・ニーロ   マレー・フランクリン
    ザジー・ビーツ      ソフィー・デュモンド
    フランセス・コンロイ   ペニー・フレック


<ストーリー>
大都会の片隅で、体の弱い母と2人でつつましく暮らしている心優しいアーサー・フレック。コメディアンとしての成功を夢みながら、ピエロのメイクで大道芸人をして日銭を稼ぐ彼だったが、行政の支援を打ち切られたり、メンタルの病が原因でたびたびトラブルを招いてしまうなど、どん底の生活から抜け出せずに辛い日々を送っていた。そんな中、同じアパートに住むシングルマザーのソフィーに心惹かれていくアーサーだったが…。
http://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=368253

 

【ネタバレあり】

 本作鑑賞後の劇場の帰り嗚咽が止まらなかった。夜道をゴフゴフ言いながら歩く四十過ぎのおっさんといえばそれは不審者と呼んで構わない。なんだろう、この映画が掻き立てた感情は。ふと、口元を左手で押さえて声とも息ともつかない空気の喘ぎをどうにかしようとしている傍目に滑稽な自分の姿が、劇中のホアキン・フェニックス演じるジョーカーの姿にダブってきて、そうか、と少し分かった気がした。この映画は「どこにでもいる全ての異形なる人々」へ生きろと伝えているのだろうと一人で勝手に納得したのだ。脳内ではあいみょんの『生きていたんだよな』が爆音再生されていた。

 

 開始冒頭の暴力的な迫力と機織り機で織っていったような緻密なカット割りに圧倒される。カメラを振り回すことなく、スクエアに近い画面にローファイな色味で絵を作りながらごく現代的な文法で映画を組み立てていく。タイトルロールが出た瞬間に、鑑賞者には期待感と高揚感と同時に極めて不吉な予感が与えられる。本作の冒頭で鑑賞者はこの映画が「ジョーカーが生まれ持って内に秘めていた悪に覚醒する」ルーツ探訪のストーリーでないことを突きつけられて絶望するのだ。それくらい、冒頭のアーサーは弱々しくいじましい。鑑賞前に抱いていたジョーカーのイメージの源流にアーサー(劇中、ジョーカーと呼ばれる前の役名)がいないことを目の当たりにするのだ。

 

 この映画を観てのトッド・フィリップス監督の印象は秀才肌の勉強家。バットマン・サーガにおけるジョーカーをモチーフにして様々な映画へのオマージュを束ねている。『タクシー・ドライバー』トラヴィスの社会との断絶を軸としながら、『キング・オブ・コメディ』パンプキンの強烈な承認欲求と没入感をからめて、ブーツを広げるときの背中からのカットに見られるような『マニシスト』の肉体的な異物感というエッセンスを加えつつ、この3作品の記憶や自我の危うさというテーマを強烈に引用している。個人的には『メイド・イン・ホンコン』の拳銃への執着に通じるものを感じてニヤリとしてしまった。

 

 それに対してホアキン・フェニックストッド・フィリップス監督の広げた風呂敷の倍の演技をしていたという印象だ。見事にトラヴィスからアーサーへのバトンを受け取ったと思う。それにヒース・レジャーホアキン・フェニックスがそれぞれ演技への執念を燃やして指向した「ジョーカー」は別のものだと思っている。命を削るような演技で知性と狂気を込めたカリスマティックかつヒロイックなヒース・レジャー演じるジョーカーとは違い、ホアキンのジョーカーはborn to killlが悪のルーツを辿る物語ではなく、もっと不格好で惨めな魂が、自分勝手にひどく間違った救済を受けるべくもがき苦しむ「我々の物語」だ。

 

 アーサーは何度も社会へのアクセスを試み、そして失敗している。結果、ゴッサムシティという非常に現代的な社会に適合したのがジョーカーというペルソナだ。そこまでの過程を「社会の包摂力」などという上っ面なキーワードで一般化し教訓化することなど無意味だ。「○○○がもう少しアーサーのことを受け止めていれば・・・」なんてしたり顔で語ることはこの映画の鑑賞の作法にそぐわない。劇中に2回、バスの車窓越しにアーサー(ジョーカー)の顔が映るショットがある。前半と後半、ある契機を境にして2回。表情が全然違うのを思い出されただろうか。後半にある窓越しのジョーカー(アーサー)の表情は本当に清々しいのだ。喜びに満ち溢れている。

 

 クライマックスを経てラストシーン、キューブリックの『時計じかけのオレンジ』のような痛烈なアイロニーさえもそこにはない。諦観なんてものは微塵もない滑稽なほど「生」に執着してもがくジョーカーの姿に僕らはドス黒い希望と爽快感を覚えるのである。そう、これは「毒性の青春サクセスストーリー」だ。『ナイト・クローラー』のように善悪の彼岸から投げかけられたクズの成り上がり物語。そこには道義的批判も憐憫も必要ない。その局面まで痛々しさややるせなさを顔面の圧迫演技で押し続けたホアンキンが、道化の本分である喜劇に道筋をつけたというあのシーンは映画史上に残る名演技だ。

 

 最後に厄介な「道徳」の問題が残る。不遇な境遇、精神疾患を持った人間の殺人の話を果たして「毒性の青春サクセスストーリー」などと賛美までとはいかなくても肯定してよいものだろうか。『タクシー・ドライバー』当時、ベトナム戦争によって浮き上がった「社会不適合」が現代に可視化された虐待や精神疾患というに社会的課題に姿を変えて今我々の前にある。アーサーが「生きる」意味を本人がもがき苦しみながら勝ち得た過程として我々がその物語を読み解くとき、物語の天秤の反対に異物の排除や同質性の強要という現代社会の病質性が乗せられているのであるならば、資本やシステムと手を結んだその病質性が強大であるこの状況を踏まえて、それに抗う「ジョーカー的な何か」は我々が生きづらさを克服する上で必要な「毒」ではないかと思えるのだ。

 

 僕にとってこの作品は最高に爽快で唯一無二な「毒性の青春サクセスストーリー」だったということをここにもう一度繰り返しておきたい。

 

f:id:upaneguinho:20191014100502j:plain

 

タクシードライバー [Blu-ray]
 

 

 

 

 

マシニスト (字幕版)

マシニスト (字幕版)

 

 

 

メイド・イン・ホンコン [DVD]

メイド・イン・ホンコン [DVD]

 

 

 

 

千葉の台風被害のなか、停電の夜に思ったこと

  末尾に貼り付けてある画像はツィッターで見つけた投稿です。これそのものには・・・酷すぎて私から何かコメントすることもないのですけども、とても類型的なサンプルなので今回の問題提起に使わせてもらっています。程度の差こそあれ私の周囲にも基本的思考回路はこの画像の投稿主と変わらない人がたくさんいるなということを今回の台風15号で改めて認識したのです。東電や自治体を叩くことで首相官邸を擁護し、立場論や手続き論やマニュアルから思考が一歩も前に進まない人たち。その延長線上には自己責任論・自助努力礼賛が出てきて切り捨てや排除の理論につながることを想像できない(・・・少なくとも自分がレイシストの芽を内包しているという自覚はない)人たち。気の弱さとか、なにがしらの人の良さのおかけで、なんとか社会の人間関係に踏みとどまれている人たち。
 そんな彼ら(そう何故か殆どが男)に一点の違和感が拭いきれません。彼らは、どうも自分たちのことをマジョリティだと認識しているらしいこと。もしくはマジョリティ風に振舞っていると言うべきでしょうか。生きづらい、しんどいはずの当人たちが、「マジョリティ」の資格を獲得するために虚構のマウントポジションを取り、異なるクラスタ(彼らが勝手に線引をしている対岸)を攻撃しているように見えるのです。言葉は悪いのですが、分不相応に「自分を格上げしている」ように映っていまして。言い方を変えればエスタブリッシュメントでもないのにそれっぽく振る舞っている・・・会社やビルや億レベルの証券資産を持っているわけでもないのに。その態度は白井聡

「○○が私より知的に見えるのは、知的なふりをしているからである」という思考において、「○○が私より知的に優れているから」という可能性が、あらかじめ排除される。

(p69、日本の反知性主義晶文社

 と描写した恣意性や独善性と同質の肌触りがします。

 
 また、桜井哲夫

自分の行動を倫理的に抑制する規範が内面になく、あくまでも外部の国家によって正当化されなければならないという論理は、逆に言えば、国家の活動と私的な活動の区別がなされず、境界があいまいなまま、私的利害が無制限に国家の活動のなかに侵入するという結果をもたらした。

(p63、<自己責任>とは何か、講談社現代新書

と説いていて、これは支配者から民衆への侵襲だけども、逆に民衆側が喜んで「国家の活動と私的な活動」の境界を曖昧にしようとしているということも往々にして起こっていることなのだと感じています。そこからは彼らに『自分の行動を倫理的に抑制する規範』が十分に自己内面化できていないということは導けるのですけども、それにしてもあの幼稚で支離滅裂な「アベ的な何か」に自己を溶解させる動機にはもう少しアイデンティティ寄りの欠落が何かあるような気がしているんです。ある調査で自己有能感の高い人(俺はデキる、何でも知っている、と自覚している人)でも、自己肯定感(自分のことは好きだし生きてていいと思っている)が自己有能感を超えない人間はいて、つまりそういう人は有能である自分しか肯定できないんです。条件付き肯定なのですよね。簡単に言えば「負け方を知らない挫折下手」。
 
 宮台真司が「言葉の自動機械」と呼ぶ感情の劣化した人間が量産された背景として説明に使う「大きな物語の喪失」。それは戦後復興の達成と経済成長モデルの終焉、近代史的伝統的家族観の崩壊と性愛の不成就・・・なのだと僕は捉えているのですが、その局面に差し掛かったとき、彼らの前には非常に戦略的に「安っぽいナショナリズムとそれを謳うアベ的な何か」がアフォーダンスされていたんです。条件付き自己肯定のために、つまり自我のメンテナンスのために彼らはそれに飛びつきました。ジャーナリスト白川桃子とタレント・エッセイストの小島慶子の対談を紹介します。
白河 男性たち自身が、立場がすべてで、人間扱いされてないからというのもあるでしょうね。そして男性には、相手がお金や地位を目当てに寄ってきても、自分がモテていると解釈できる、都合のいい脳がある。前野隆司先生が言うところの、「地位財」的な幸せで生きているから。なぜそれで男の人は満足できるのか、すごく不思議。
小島 肩書きと生身が一体化してしまっていて、境目がわかっていないんでしょうね。
白河 身体性がないのかな。
小島 身体性の欠如と、自分が何者なのか悩む必要はなかったというのがあるんじゃないでしょうか。悩む習慣がなかったというか。
(p171、さよなら! ハラスメント、晶文社

 

 彼らは、「立場」を失って、もしくは自分が想定して獲得に向けて努力していた「立場」が手に入らず、いざ自分が何者かを問い直さないといけない時に、悩む習慣を身に付けていなかったがために新しい「物語」の中に自分を捉え直するための苦しい作業に向かい合えず、ローコストで使いやすい差別的なイデオロギーの方を手にとってしまったのです。何かしらの政治的理想を実現するためではなく、失った立場の代替品を手に入れるために。
 
 さて、マイケル・サンデルが興味深いことを言っています。

人生を生きるのは、ある程度のまとまりと首尾一貫性を指向する探求の物語を演じることだ。分かれ道に差しかかれば、どちらの道が自分の人生全体と自分の関心事にとって意味があるかを見きわめようとする。道徳的熟慮とは、自らの意思を実現することだけではなく、自らの人生の物語を解釈することだ。そこには選択が含まれるが、選択とはそうした解釈から生まれるもので、意思が支配する行為ではない。目の前の道のどれが私の人生の山場に最も適しているか、私自身よ他人の目にはっきり見えることも、時にはあるかもしれない。反省してみると、私自身より友人のほうが、私についてよく知っていると言えるかもしれない。道徳的行為の物語的説明には、そうした可能性を含められるという利点がある。(中略)私が自分の人生の物語を理解できるのは、自分が登場する物語を受け入れるときだけである。マッキンタイアにとって(アリストテレスと同様に)、道徳的省察の物語的あるいは目的論的側面は、成員の立場と帰属に結びついている。

(p348、これからの「正義」の話をしよう、ハヤカワ文庫)

 これは彼が「忠誠のジレンマ」について論を進めていく後半に出てくる主張で、原理主義的政治思想もリベラリズムも不完全と批判した上で、決定的ではないとはしながらも彼が可能性を見出しているコミュニタリアニズムのエッセンスが比較的わかりやすく書かれている部分だと思います。続いて彼はこう締めくくります。
その道徳的な重みの源は、位置ある自己をめぐる道徳的省察であり、私の人生の物語と関わりがあるという認識なのである。
(p353、これからの「正義」の話をしよう、ハヤカワ文庫) 
 
 まとめると、「アベ的な何か」を信仰する彼らは、①まとまりと首尾一貫性を指向する探求の物語から自責・他責を問わず様々な理由でドロップアウトし、②新たな物語の中に自己を捉え直すことを手伝える他者との関わりに恵まれず、③位置ある自己をめぐる道徳的省察の努力と人生の物語においての自己応力感が足りなかった人々、だと僕は見ているということです。個別具体的な政策への支持、不支持に関わらず、僕は彼らのペルソナについても一般的に対して変わらない原理でドライブされているのだろうなと判断しています。なぜなら、そこに至るまでの経緯が上述の説明にあるような内発的なものであるからです。
 ひるがえって彼らは、社会やコミュニティーとの関わりにおいて他者の人生の物語を捉えることができません。そもそも物語を放棄しているからです。したがって、彼らの主張の先に分断や差別の横行、人権の抑圧があったとしても(それらはすでに起こっていることであるのですが)、物語の登場人物に想像力が働かないのです。彼らの言説が非常に無責任で軽いものである理由はそこにあります。SNSでは困った友人に優しい言葉をかけることはできるけども、多少の規模と複雑性を持ったシステムに向かっては驚くほど冷酷な弱者切り捨ての理論を振りかざす。さらに彼らの言説が理論的ではないのは、統合的な「善き生」のための「物語」が紡ぐものではないからです。「自分自身を自由で独立した自己として理解し、みずから選ばなかった道徳的束縛にはとらわれない」というリベラリズムの文法を用いて連帯と歴史的記憶(侵略戦争慰安婦、徴用工など)を恣意的に取捨選択しながら、本来、リベラリズムが批判するべき階層や階級、身分や地位、習慣、伝統、世襲した地位などによって定まる運命に人間を委ねる政治に支持を示している支離滅裂さも同じところから来ているのでしょう。
 
 僕は争いや対立は望みません。政治は偉い人がうまくやっていてくれればいいと思っています。政治的議論も面倒くさい。だけど、家族と慎ましい暮らしを守るために「程よいそこそこの『アベ的な何か』の支持」というのは有り得ないと考えています。
 「アベ的な何か」信仰者の皆様が体制寄りの主張を張って、たった今は気持ちの良いマウントポジションを取っていられるとしても、「アベ的な何か」はあなたのことなんか一切気にもしていないし、「いざという時」には真っ先に信仰者であるあなたの自由や尊厳を奪いに来るということをわかって欲しいのです。
 
 だから、僕はあなた達を批判し続けます。

f:id:upaneguinho:20190916220842j:plain

ついった

デビルサマナー

f:id:upaneguinho:20190603102113j:image

品川駅始発の千葉行きに運良く座れた。ただ、自分の気持ちは甚だ不愉快。

電車に乗り込む時に、前の松葉杖の男性がつまずかないようにスペースを空けてゆっくり歩いていたのだが、そこに後ろからぬるぬるっと割り込んできた50代のビジネスマンがいた。骸骨のような輪郭の黒縁メガネ。擦り切れた黒いノースフェイスのリュックを使っていたので、ぼくは彼のビジネスマンとしてのスペックをそこそこに見切った。僕にとって不運な事は、ガムを噛んでいるそのシャレコウベがとなりに座ってしまったことだ。気持ち悪い。おおっぴらに悪事を働く度胸はないが、自分が安全圏にいれば人を陥れるタイプ。

そして反対側は俺物語!!のような顔をしたガタイのいいブラウンのスーツ。スペース的にはシャレコウベとでプラマイゼロだが、こめかみに汗を垂らしている鈴木亮平は、足をぱっかーん!と広げている。股関節の調子が良くない人なんだろう。それにしても自分の2本分くらいあるぶっとい太もも。柔道やってたんだろうな。だけど、柔道やってた股関節の筋力あれば、その膝は閉じられるよな?!僕が座る時に、一旦中腰になって「座るからね」サインを出しているのに無視して、僕が座った後に迷惑そうに僕の尻の下から自分のジャケットの裾を引っ張り出し、そして弛緩、ぬるっと膝を広げてきた鈴木亮平に僕の大嫌いな「体育会系的不遜さ」を感じた。

そんな両者に挟まれて、それはもう生理的なレベルでの不快感に襲われ、読みかけの本を広げる気にもなれない。

と、ドタドタッという足音ともに、男性の「おい!大丈夫か?」という声。「ここにしっかり掴まって!」声の方に目を向けると、オシャレだけど浮ついてない印象のカジュアルに身を包んだ二人の男性に両側から支えられて、うつむいている茶髪の女性がいた。

ひどい酔い方をしているみたい。

時間的に出来上がるのが相当早いな、とも思ったけど、なんとなく雰囲気的に飲食店関係で働いている人たちのような感じがした。飲み始めの時間が早かったのだろう。なにかの打ち上げかしら。

「おい!立てるか?」「どっか席空いてないの?」二人の男性。その時、酔っ払いの女性が酷く辛そうな顔を上げた。目は開いてない。僕はフェミニストだけど、あえて言おう、不細工なぽっちゃりちゃんだ。しかも酷く酔った。

今にも戻しそうな微妙なアクションをしているぽっちゃりちゃんを、男性二人は明らかに持て余していた。彼らが乗りたい電車は違うらしい。手を離せばそのまま崩れ落ちそうなほどぽっちゃりちゃんは足に力が入っていない。だけどあと数分で、品川駅始発のその電車は出発してしまう。

この時、僕は純粋に悪意で人助けをすることにした。介抱している二人の男性の背の高い方の黒キャップにアイコンタクトして、グーに立てた親指で僕の背後を指すと、ぽっちゃりちゃんに席を譲った。

もちろん、両側のシャレコウベと鈴木亮平はドン引き。えー!俺らの平和な通勤時間は?的な。

黒キャップはかなりきちんとした言葉遣いで僕に礼を言いながら二人掛かりでぽっちゃりちゃんをぼくの座っていた席まで運搬していった。お礼の言葉に対して、僕の中にこれっぽっちの善意も無いことを自覚したのと、黒キャップの爽やかな態度も連れのルックスによってはチャンス到来のオスに変わるんだろうなという想像から、普段は滅多に使わない皮肉な笑顔で応えた。

自分はできるだけぽっちゃりちゃんから距離を離したところでつり革に捕まり、ドン引きのシャレコウベと鈴木亮平の間で小刻みに揺れているぽっちゃりちゃんをちらりと見やって、心の中で独りごちた。

「どっちかの膝の上に吐いたら、楽になるのに」

僕もたまには真っ黒な動機で悪魔を召喚する。

余談だけど、僕は「デビルサマナー(悪魔召喚士)」と呼ばれている悪名高い合コン女子幹事を知っているが、その子は可愛いし、個人的に飲めば楽しい人だ。

『幻想の経済成長』デイヴィッド ピリング

f:id:upaneguinho:20190603101714j:image

読むのにとっても時間がかかった。理由は、この本は学術書や実用書の類ではなく、「面白いノンフィクション、ルポタージュ」の体裁だから。

いつものようにビジネス書を読んでいる時ならば、マーカーと付箋を片手に「読み返した時に拾うところ」を残していく感覚で読み進めるのだけども、今回は実に時間がかかった。エキサイティングな小説を読んでいるように活字を追ったし、適度に難解なので読み返すこともしばしば。

読書感としては「フラット化する世界」(トーマス・フリードマン)とよく似ている。ジャーナリスト特有の時折ユーモアや皮肉を交えた饒舌な筆致。貨幣価値に交換可能な尺度ばかりに注目すると本来的な幸福観を歪めたり見失ってしまうぞ、というのはマイケル・サンデルを始め、「父が娘に語る 美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話。」(ヤニス・バルファキス)でも語られていることであるが、本書はより統計官のジレンマや苦労に寄り添ったものになっている。そして、全体的に「経済学者」と「金融業」に対する批判が漂っていて。

まとめると、
GDPの測定対象になっているものも、正確に計れていない。
GDP測定対象になっていないものも相当ある。
③絶対視されているGDPが映す世界とリアルはかなりの乖離がある。そもそも「経済」という概念がリアルではない。
④より良い代替指標も無いので、様々な指標を用いて補完し合うべき。
という事のよう。

そして、経済成長万歳という手放しな姿勢には疑念をぶつけながらも「FACTFULNESS」(ハンス・ロスリング)にもあるように、低開発国の人々が人間らしい生活を手に入れるための経済成長を否定するべきではないとし、実際にハンス氏のコメントも紹介している。

私が心に残ったのは、指標や統計の設計そのものが恣意的で政治的であるとは言いながらも「測定できないものは管理できない」というドラッカーの言葉を引用しながら、良き統治を目指すのなら良き測定をしなければならないというメッセージだ。まさに政策や意思決定でのdata drivenの重要性と難しさを語っているわけで、正確に測る事も記録に残す事も放棄してしまったように見える我が国は、世界が国民所得3.0に向かおうとしている時に、国民所得1.0の要件を満たしていないのではないかという2週遅れの絶望感を禁じ得ない。

『「より優れた」測定方法ほど、「より優れた」社会を築く力を持っていることを意味する。』(p274)